これは次の「私は乗物が好きだ」の前に来るもので、子供のころを「趣味」と
いうキーワードで回想したものです。15年くらい前に書いたときはあまりに自
慰色が強いのでパケットには載せなかったのですが、せっかくの文書なので今
回はここにひっそり公開しておきます。本当はこの後に色々な趣味が登場して
最後には「中国趣味」に行き着く、ということで、全体の題を
「DO YOU KNOW THE WAY TO CHINA?」(「サンホセへの道」のもじり)
とつけたのですが、自分でも恥ずかしくなってバラエティ路線に行ってしまいました。
まあ「雑踏の誘惑」は中国趣味そのものなので、そういう意味ではちゃんと中国へ
行き着いたものと思っています。


            DO YOU KNOW THE WAY TO CHINA?



         序章 私がスーパーマンになりたかった訳


 私はスーパーマンになりたかった。むろんこれは「スーパー」に勤めている
人のことではない。また、例の「力は機関車よりも強く、高いビルなどひとっ
飛び」の、クラーク・ケントのことでもない。要するに「何でもできる人」の
ことである。では、何でもできる、とはどんなことかというと、まず頭脳明晰、
マサチューセッツ工科大学の学位を持ち、古今東西の洋書、漢籍に精通し、筆
名で出版した文学書がベストセラー。つぎにスポーツ万能で、オリンピックの
複数種目に出場したメダリスト。芸術にも造詣が深く、楽器を演奏すればプロ
級、しかも容姿端麗で、もてほうだい。そのうえ大金持ちで、サン・モリッツ
とカリブ海の別荘所有、とまあこんな按配である。こういう存在になってみた
いと思ったことの無い人はいないのではなかろうか。しかし、たいていの場合
は、人生のごく初期において、自分にその能力がないことに思い至り、やがて
そのような願望を持ったこと自体を忘れ去ってしまうのだ。凡庸であることは
悲しい。

 私は、といえば、総面積が十畳という「ネズミ小屋」に親子四人で住み、収
入は人並みで、短躯、短足、肥満気味と三拍子そろった風采の上がらない中年
男である。十八歳で郷里の広島県福山市から上京し、以来二十年になる。私の
生家は祖父の時代から続いた歯科医院で、私もまた、現在それを業としている。


 まだ幼くて物事を自分で判断できなかった頃に、私は祖母と母親の両方から
価値観を押し付けられて育った。祖母は、私と一緒に風呂に入る度に、私の叔
父達、つまり彼女の「優秀な」息子達を引き合いに出して「ええか、なんでも
できる人間にならにゃあいけんよ」と言うのだった。実際にそのころの叔父達
は私の目にはスーパーマンのように写っていた。脳神経外科のパイオニア、日
本のベン・ケーシー、などと書かれた新聞を見せられた記憶もあるし、もう一
人の叔父も発生学の研究者として学問の階段を半分以上のぼっていた。祖母の
自慢はこれらの息子が「勉強ができるだけの人間ではない」所にもあった。で
は、この二人の兄に当たる私の父はどうかというと、どうも自慢の対象になっ
ていないように見えた。北海道大学で細菌学研究の道をめざしていた父を無理
やり呼び戻して開業医にしたのも(無論、最初からそのつもりで歯科医専にやっ
たのに、父が開業医を継ぐことをいやがっていた)主に祖母の説得であったと
いう話だったが、子供の時から体が弱く、成績も抜群とまでいかない長男は、
病気一つした事もなく、女学校をトップで出た祖母にとっては不肖の息子だっ
たのだろうか。

 この父の顔もよく知らぬまま、終戦の直前に嫁いできた母は、この学者ばか
りの家系の中で、自らのアイデンティティが崩れそうになったのだろうか。全
く違う概念でこの一家に対抗しようとした。自分の血統の良さである。母の父
親、すなわち、私の母方の祖父は東京帝国大学を出た工学技師でイギリス留学
を経て日本火薬に勤務していたが、母が女学生のときに亡くなっていた。早く
に父を無くしたことによって追慕の情がつのったのだろうが、私が母から聞い
た口調はむしろ神格化に近いものだった。あとから次第に判明したのであった
が、この母方の祖父はかなりの変わり者であった。明治時代には普通だったの
かもしれないが、士族であることに異常なプライドを持ち、また子供達にもそ
のプライドを受け継ぐよう教育したらしい。広島の浅野藩士であった先祖の家
系を研究することが、結局、私の母親の生涯の仕事になったのだ。

 私の母は家庭の主婦としては、全くの無能であった。では他に何か特別の才
能があったかと言えば、やはり無能であった。こういう嫁が、ことあるごとに
息子達の自慢話をする姑と一緒に暮らすのだからうまく行く筈がない。自分の
回りに友人の一人もいなかった母が「時代が時代なら町人風情に無礼な口など
きかせたりしないのに」と思い続けたのも、それはそれで仕方なかったかもし
れない。ちなみに、祖母の生家は大工だった。次第に母は自分の立場を「無理
やり町人に嫁がされたお姫様」といった自己陶酔気味なものに変化させていっ
たと思う。お姫様が無能なのは当然だから、この思い込みによって自分を正当
化できるからだ。凡庸の悲劇と言うべきであろうか。断っておくが、母の生家
は、本人が信じたがっていたような名門ではなく、ごく普通の士族であった。

 こういった状況の中で、三番めに初めて男の子が産まれたのだからたまらな
い。「名門の末裔」が誕生したのだ。自分が武士の娘なのだから、自分の息子
は武士なのである。しかも、神のように尊敬している彼女の父親の孫に当たる
のだから、祖母の自慢話に対抗できるような優秀な人間に違いない。また、そ
のように育て上げなければならない。という思いはほとんど狂信的な物があっ
たと思う。まあ自分を客観的に見ても、私における遺伝的な要素は決して悪い
ものではない。しかし、大きくグループ分けすれば、やはり「普通の人」のも
のだと思う。この「普通の子供」に対して母は武士としての精神教育を施した
のであった。むろん学業においても「文武両道」であるのは当然のことであっ
た。この一点において祖母の「なんでもできる人」と、母の路線が一致したの
であった。親は昔から自分に都合の良い夢を見るものだが、私に求められたの
は「なんでもできる武士」これであった。

 「家売り囗(ます)と唐様で書く三代目」(うろ覚えで違うかもしれない)
という川柳がある。 初代、二代と大きくしてきた店も三代目の遊蕩の為に手
放さなければならなくなった。それでも遊びによってセンスだけは良くなった
放蕩息子は、売り家の看板を洒落た字体で書いてみる。といった意味だと思うが、
母と祖母の私に対する感化がもたらしたものは、まさにこれであった。私は、
立派な学究にも、武道の達人にもならなかった。では、なにになったかと言うと
「多趣味な人」であった。なんでもできなければならないという強迫観念だけ
が強く残って、「社会の、または天下国家の役に立つ」という言外の含みが消
えてしまったのであった。再び、凡庸の悲劇と言うべきであろうか。

 そういう訳で、私は他人から「多趣味」な人間であるとよく言われる。辞書
によれば趣味とは「実用や利益などを考えず、好きでしているものごと」また
余技とは「専門でない技芸」とのことである。確かに私はこの年になるまでに
多くの「ものごと」ないし「技芸」に手を出してきたが、いずれも専門ではな
いし(専門は歯科医療ということになっている)、そのどれもを「好きで」し
ている。しかし、すべてではないけれども、実用や利益は考えている。むしろ、
実用や利益になるものにのみ私の興味は集まるといってもよいくらいだ。もう
一つ「凝り性」であるという言われ方をすることもあるが、こちらのほうは
「物事に夢中になる性質」のことで、疑問の余地なく私の性格をあらわしてい
る。辞書にはないけれど、この「凝り性」には、「興味が長期間持続し、時間
の経過と共に行為が尖鋭化する」といった意味も含めたい。いわゆる「病膏盲
に入る」というやつである。これは「飲茶」に当たるものが「茶道」、「拳法」
が「空手道」になるような日本人独特の傾向かもしれないし、一辺数ミクロン
のチップに一処理数ナノ秒というコンピューターを詰め込んでしまう、人間と
いう動物に共通の特質かもしれない。いずれにしても、良くも悪くも文明を進
歩させてきたのは「凝り性」の人間であるとは言えると思う。


          第一章 少年は海辺で人生を発見した

                               地図
 多分私が四歳かそれくらいの頃、父は私とすぐ上の姉を連れて、沖野上から
川口というあたりによく鮒を釣りにいった。地名が示すように江戸時代にでき
た埋め立て地だが、当時このあたりは福山市の郊外で、昔の練兵場あとを二つ
に分けて広島大学の福山分校と三菱電機の工場にしていた。両方で周囲3kmも
ある広大な敷地で、その周囲の石垣が子供の目には無限に続く長さのように思
えた。その先は、視野のすべてを水田が占めていた。近くに国立病院があった。
当時父は国立病院の大門分院に勤務していたか、やめてこちらの本院の関係者
だったのかで、このあたりには詳しかったのだろう。この水田地帯の灌漑用水
の小川で鮒が良く釣れたのだ。話はそれるが、私はこの広島大学の構内にある
附属高校を卒業した後、父と同じ東京歯科大学に進学した。それから二年後、
予科にあたる進学課程から専門課程に進む試験に悪戦苦闘していた頃、父はこ
の国立病院に於いて肝硬変で死んだ。主治医は父の昔の同僚でもあり、私の高
校の国語教師の兄でもある、川崎先生だった。私が東京から追試の合間に駆付
けて父の臨終を看取った時、かっての水田と小川は完全に姿を消していた。

 話がそれた。釣りの話だった。とにかくこの小川でする釣りは、ミミズを
ちぎる気持ち悪さよりも魚を釣るおもしろさのほうが大きかったのだろう。毎週
行っていた時期もあるような気がする。その次に私に釣りを教えてくれたのは、
専門家つまり漁師だった。

 笠岡市は岡山県の西の端で、広島県の東の端である福山市とは隣の位置にあ
るが、笠岡の沖には瀬戸内海特有の白砂の浜を持った小島が幾つもあって、近
くの町から海水浴に行く場所になっていた。笠岡の港の前に陸続きのような感
じで見えている大きな島が神島で、その裏側にへばりつくように片島という本
当に小さな島があり、ここに漁師の家が十軒ばかり在って、そのうちの一つが
東さんという家だった。この家の人が私の祖父に歯の治療を受けに来ていた関
係で、夏休みの間の一週間ほどの期間この家の離れを借りて子供達に海水浴を
させるのが毎年の恒例だった。ここには中学生になる頃まで行っただろうか。
次第に皆大人になって行かなくなってしまった。最近になって自分の子供にも
同じ体験をさせようとして地図を見てみたところ、この片島という地名を陸の
中に発見してしまったときにはさすがに驚いた。つまり周りの海をすべて埋め
立ててしまったのだ。今はきっと海岸まで何キロもある町になってしまったの
だろう。そこら中に山積みに捨てられていた、、あのカブトガニ(天然記念物!)
はどうなったのだろう。

 また話がそれてしまった。この東さんの家の前の船着き場は石で積んだ崖の
ようになっていた。瀬戸内海は干満の差が大きいので満潮のときは家のすぐ前
に海面がきて(大潮のときは床下まで来たこともあった)干潮の時は飛び下り
たら足の骨を折ることは確実なほどの崖下に海底が露出するのだった。この前
庭兼漁具置き場兼船着き場で、十歳くらいの私が、そこに繋いだままの伝馬船
に乗って遊んでいると、引退した漁師である東さんのお爺さんが私に釣りを教
えてくれたのだった。お爺さんは長年漁師をやってきた人に特有の潮焼けした
艶のない褐色の肌と、白髪と言うより色素の抜けた髪、それに太陽に焼かれて
白濁した眼をしていた。午前中の上げ潮で文字通り海面が次第にせり上がって
くる途中だった。お爺さんは、そこに置いてあった竹の枝に釣糸をつけ、その
先におもりと針をつけただけの、これ以上簡単にはならない仕掛をその場で作
り、餌にスナムシ(関東でゴカイと呼ぶ虫)をつけ、私に持たせて先を上げ下
げするように言って家に引っ込んでしまった。その後の一時間ほどで15cm程の
ハゼが40尾も上がって、私は心の底から嬉しくなってしまった。しかもその日
のお昼に、これをフライにしてもらって食べたときのうまさと言うものは、ま
さにそれまでの短い人生の中で決定的とも呼べる大事件だった。この一件が私
に大きな影響を与えたことは疑いない。つまり、一つは専門家の持つ知識と技
術に対する深い尊敬、もう一つは、自分のすることが実用になることに対する
喜びである。おおげさに言えば、十歳の少年はレゾン・デートルを発見したの
だ。

 その後の数年に、家族でする船釣りを、二回か三回した。これはこのあたり
の漁師が副業にするもので、焼玉エンジンのついたやや大きめの和船に天幕を
張って、数人の客を一日釣りをして遊ばせるもので、言えば餌もつけてくれる
し、場所や潮を知っているので、いつも食べきれないほどの大漁が期待できる
のだった。上の姉などはこれに味をしめて、当時入学したばかりだった多摩美
術大学の釣り部に入ったほどだ。もっとも、これは短期間で失敗に終わったよ
うだ。東京に住む人の釣りに対する考え方は、基本的なところで我々のそれと
違っている。これは釣りに限ず、スキー、テニス、ゴルフ等等、きりがないが、
まずなにかを始めるということは、そのファッションを身に付ける事であり、
つぎに用語に精通することであり、三にそのことについてシニカルな見方をし
てみせることなのだ。技術を向上させるという面は完全に無視してもよいとい
う印象すら受ける。私は世界の事情については全く無知なのだが、ワールドカ
ップのスキーレーサーと全く同じウエアと道具で武装した人間がプルークボー
ゲンの練習をしている風景などは、ヨーロッパアルプスなどでもよくみられる
のだろうか。それともこれを考えただけで背中が痒くなるような思いがする私
の感性そのものが、やはり田舎の人間のものなのだろうか。

 またしても話がそれてしまった。先程も言った通り、私は広島大学附属福山
中学校に進学した。この学校は県下でも有数の進学校なので、近隣の郡市から
秀才が集まっていた。この環境の中で、それまでは努力もせず優等の成績をあ
げてきたので、自分では本当に頭のいい人間だと思っていた私が、ビリに近い
劣等生になるまでには、ほとんどひと月もかからなかった。劣等生になるのは
早かったけれども、それを卒業するには長い年月を要した。この六年制の学校
を、文字通り卒業するのを待つしかなかったのだ。勉強をすることを早々と放
擲してしまった私の前には無限に近い時間が与えられていた。というより、そ
の時間をなんとかして処理することだけが私の仕事になってしまった。幸いに
友達だけはたくさんできた。よく学園物の漫画などを見ると、他人の成績ばか
り気にしているガリベンというのがよく出てくるが、本当に優秀な人間と言う
ものは他人の成績などに全く無関心であることを私はここで知った。私もまた
他人の成績に無関心であった。皆、自分より上であることが、最初からわかっ
ているからであった。なさけない話である。ともかく、そうしてできた友達の
一人に前田辰吾という水呑から来た友達がいた。

 福山市は芦田川のデルタが作った平野にできた町である。私は歴史というも
のに全く関心がないので、違っているかもしれないが、元は中国地方一帯を広
く治めていた毛利氏の領土の中で備後、安芸の二国(この二国を合わせて現在
の広島県はできている)が秀吉の時代に福島正則のものになり、後に正則を移
封した家康が昔からの忠臣である水野勝成に備後の国を与え、この水野勝成が
整備した城下町が福山市の基礎になっている。治水は昔から町造りの基本であ
る。水野勝成は氾濫しがちであった芦田川の流れを移し、上水道を整備した。
その結果として室町時代の市であった草戸千軒は水没し、新しい河口ができた。
この河口の始まりのあたりが、鮒を釣りにいった川口で、もっと下流にいって
海と交わるあたりが水呑、田尻である。
                                                           地図
 水呑は河口の西側の土地で、ここを通ってずっと南下すると、万葉集にも歌
われた、古代からの港町である鞆の浦に至る。水呑のあたりは水が汽水で、干
満による逆流のために流れが速く、海苔の養殖に最も適した場所となっている。
海に突き出した形となっている竹ヶ端というあたりには、海苔の養殖と汽水の
多彩な魚とで生活する、漁師の小さな集落があった。前田辰吾はこの集落の人
間である。進学校に行くくらいだから優等生だったのだろう。しかし、彼には
私のような町中に育った人間にはない、ワイルドな雰囲気があった。彼の家も
昔は海苔と漁業で生活していたのだろうが、そのころすでに彼の父親はどこか
の会社に勤めていると聞いた。福山は工業都市として生まれ変わっている最中
だった。この竹ヶ端から舟で箕島沖に出ると、海を埋め立てて出来たばかりの
日本鋼管の巨大な製鉄所と、そこから立ちのぼる幾条もの煙が目の前に見えた。


 竹ヶ端の狭い入江には多くの漁師が漁をやめてしまったために、魯で漕ぐ伝
馬船が死体が並ぶように、汚れたままつながれていた。前田に連れられて、そ
のあたりを歩くと、ぶらぶらしている大人がいつも誰かいた。もっとも、漁師
町の昼間は、夜明け前に仕事の終わった漁師がぶらついているものなのだけれ
ど。前田の家の舟が使えないときは、こういう大人に、舟を貸してくれるよう
に頼むと、たいてい気軽に貸してくれた。当時の金で一日三百円くらいだった
か。今なら千円ちょっと、という感じだろう。これを、一緒にいった友人数人
と頭割りするので、中学生にも充分出せる額だった。これに、前田が家から出
してきた一馬力の船外エンジンを取り付けて、箕島沖あたりで一日釣りをする
のだった。この釣はいつもたくさん釣れた。三、四人で百尾を下回ることはめっ
たになかった。私はこの釣りに夢中になった。熱中すると抑制がきかなくなる
のは、これに限らず私の基本的な性格だが、このときも、ほとんど一年間、雨
でも雪でも、休みの日は必ず海に出ていた筈だ。しかし、一人ということは一
度もなかったから、時間をもてあましていたのは私だけではなかったのかもし
れない。

 この釣りで私の得た物は大きかった。まず自在に魯をあやつるテクニック、
それに無論釣そのもののテクニック、それから、餌を掘り出すことを覚えたこ
とだ。自分で餌を堀り、自分で舟を漕ぎ、自分で釣った魚を食べる事で、やっ
と、この行為が最初から終りまで完結する思いがした。体のどこかにある、原
始時代のように自給自足できるものだけが、生存できることを教える部分が、
これによって満足するのだった。これ以来、私にはこの「全部を自分でしたい」
傾向が強くなった。つまり、建築に例を取って極端な話をすると、まず木を育
てて材木を作り、鉄を精製して釘を作り、工具を自作して、粘土をこねて瓦を
焼き、そのうえで、一人だけで、基礎工事から棟上げまでを行いたいという欲
求である。無論、私は人間社会の、それも都会に暮らす者だから、実行する能
力も時間も無いが、この例に限らず、どんな物事も実に多くのプロセスから成っ
ていて、これらを全部自分で行うには、さまざまな技術を身につけなければな
らない。そういう訳で、私は技術を身につけることに熱心な人間になったのだ
と思う。

 二十年が経って、私は二児の父になった。私は、前にも書いたように、東京
の狭い部屋に暮らしているが、夏には毎年家族で福山に帰ることにしている。
結婚して西宮市に住んでいる下の姉の子供もずいぶん大きくなった。この家族
と合流して海に遊びに行くのがここ三、四年の恒例になった。尾道の向島で、
甥が十歳の夏にボートから釣をさせてみた。普段は寡黙で表情のない甥が、
15cmばかりのメバルを釣り上げたとき、歓声を挙げて、いままでに見たことも
ない嬉しそうな顔になった。このたった一匹を大事に持って帰って煮て食べた
ことが、彼にとっては、それまでの短い人生の中での大事件だったようだ。彼
もまた何かを発見したのだろうか。

 これが、私の、釣の物語である。