この小説(のようなもの)は私と友人とでアマチュア無線のパケット通信上で
輪作したものです。ですから、格調が著しく低い部分があったとしたら、その
友人の格調が著しく低いに違いないと思います。で、その友人というのが・・・
ケ・・ケ・・けん、たったった・・・いや・・・かたのです。
               「風の物語」
                              ケン・片野
                              北林康夫

               プロローグ
「あっ・・・」
尚美が小さく声をあげた。
「逃げ水・・・ほら・・・」
 くすんだ木造りの茶房「まつうら」の中は暗く、冷房がやや肌寒い。小さな
窓から見える表通りのアスファルトに夏の陽射しが反射して目に痛い。尚美が
指さす方角の遠い路面に小さな鏡のような反射が蜃気楼のように揺れている。
「いくら追っても手の届かない水・・・」
尚美は椅子に座り直して、掌の中で珊瑚のイヤリングを弄んでいる。以前「私っ
て12月生まれでしょ。だから、逆に夏の物が好きなの」という話で、私がプ
レゼントしたものだ。その手に大粒の涙が続けざまに落ちた。
「・・・だから・・・」
私の目を正面から見て、笑顔を作って見せる。
「だから・・・別れましょ」
と、最後まで言い切って、また、視線は掌に落ちた。
 通りを緩やかに渡る風が、並木の濃い緑を微かに揺らせている。私は、遠い
逃げ水を見るともなく見続けていた。

                            初秋

 夕刻に海に着いた。老松の防風林を通して水平線が見える。島影はどこにも
ない。海は鈍色の空を写して暗く、波頭が横風に吹きちぎられている。
 私は小石の浜に腰を下ろして煙草を吸った。防波堤に停めた車もシルエット
になっている。潮の重い香を含んだ風が鋭さを増してくる。
 波打際に小さな炎が見える。風にあおられて今にも消えそうだ。近付いてみ
ると小柄な女性が手に持った手紙の束をつぎつぎに燃やしている。
「寒くなりましたね」
「・・・ええ」
炎を凝視したまま低い声で答えた。彼女は夏の装いをしている。寂しい顔をし
ている。私はそう思った。肩の線が細い。もう海も闇に沈んで見えなくなった。

 手紙はすべて灰となり、最後に少し炎をあげて、消えた。急に濃密な闇があ
たりを包んだ。潮騒が大きく耳を打つ。彼女はそのままの姿勢で動かないよう
だ。嗚咽が聞こえたようだが、風だったのかもしれない。私はそっと肩にふれ
た。
「いきましょうか」
私は、彼女の肩に上着を掛け、抱えるように車に招いた。
 行き交う車も無くなった、海岸沿いの道。押黙る二人の間に流れる時間は、
永遠とも思われた。蜃気楼を、見ているような視線。燃え尽きて、消え入りそ
うな肩先。夏物のワンピースだけが、彼女の存在を語っていた。
「どちらから、おいでに?」
「悲しい、町です。」
「ホテルまで、送りましょう。」
「・・・・」
「荷物は、何処へ?」
「燃やしてしまいました。」
すれ違うナトリウム灯に浮かび上がる横顔は、涙の痕、失った物の跡が、オレ
ンジ色に染められていた。

 山の端の輪郭がわずかに浮かび始めて、夜が明け始めた。空の紺色が次第に
白みを増し、やがて、大きなカーブを過ぎたあと、道は広い直線になって山の
間に太陽が見え始めた。酷使した目に朝日が痛い。煙草はとっくに空になった。

 車を路肩に止めて、音をたてないようにドアを明けた。山の朝の冷気が流れ
込んでくる。私のジャケットを体に掛けてシートを倒していた彼女が眼をあけ
た。
「ここは・・・?」
「起こすつもりはなかった。・・・私にもわからない。」
また、疲れたように眼を閉じた。私は車外に出て深呼吸をした。もう太陽はか
なりな高さに登り、朝焼けの赤みも消えようとしていた。車に戻ると、彼女は
シートを起こして、せいいっぱい身なりを整えていた。眼がまだ赤い。
「なにか着るものが要るな。その格好では寒い。」
「そうね。」
と、微かに笑った。
「その笑顔のほうが私は好きだな。さて、どっちに行きましょうか。」
「・・・・・・」
「そう。では、煙草とコーヒーを売っているところへ。」
「はい。」
 虫の音が夏の終りを告げている。風たちぬ、か。私はイグニションをONに
した。

 人影も疎らな秋の避暑地。気の早いポプラが煉瓦敷の上で、微かな音を立て
ている。
夏の間、若者達の騒声止まなかったであろう、コスモス揺れるティーショップ。

「すみません、まだ、開けてないんですが・・・」テーブルを拭きながらこた
える。
私の後ろから入ってきた彼女に目を止め。
「コーヒーだけでよろしければ・・」察したようにカウンターに向かう彼の背
中は、世間の大半を見てしまった男のそれであった。
  はこばれたカップを、いとおしむよう両手で囲み、初めて私の目を見つめ、
紅の薄れた唇が動く。
「ありがとう・・・」
「あの海岸には、置いて行けなかった。」
「あぶないように、みえまして?」
返答に詰まった私を察し、微笑む彼女は、ウィンドウのカットグラスより美し
く透明に見えた。
「この峠の上に景色のいい所があるようだけど、行ってみますか?」
「はい」
店を出る時に店員から渡されたコスモスを私のジャケットに挿し、少し離れて
歩く姿には、
昨日の寂しい面影はない。
 私は、自分の殻と、彼女の過去を、置き去りにする如く、アクセルを踏み込
んだ。

 展望台はもう秋の色だった。艶やかな陽射しと、海からの柔らかな風が二人
を包んでいた。のどかに山鳩が鳴いている。そこは、短い半島の付け根に位置
していることがわかった。海岸線をたどると、大きな湾に連なって、その奥に
この地方で一番大きな都市の全容を見ることができた。
「片野の喜びそうな場所だな。」
「・・・?」
「いや、これは失礼。友達でね、いい歳をして無線きちがいなんだ。ま、最近
は、探検にいそがしいようだけれど」
小さくクスリと笑って
「男の人って、みんな子供なのね。」
そう言って、なにかを思い出したのか、瞳に悲しい色がよぎった。
「そう。みんな子供だね。・・・でも子供には女性の空腹はわからない。」
「あら・・・」
と、顔を赤らめた。
「大人は狡猾だから、時として食事が最高の薬になることも知っているのさ。」

「あそこで、なにかうまい物を食べよう。それに着るものも・・・。君にはベー
ジュが似合いそうだ。」
山鳩が、またのどかに鳴いた。

 傾斜の低い日差しが、街路樹の影を店の中に運ぶ。西日を避けながら、歩道
を歩く人たちは、秋の到来に気づく余裕もないように見えた。フロアーの奥に
あるソファーに腰掛け、煙草に火を着ける。「私は、何故彼女と・・・」「何
が、私を・・・」
疑問ではなく、迷いでもない。その時、ボックスのカーテンが引かれる。
「どうかしら、これ・・・」鏡の前でターンし、私の方に向き直る。
「君のために、作られたみたいだ。」
化粧をなおし、カクテルドレスを纏った彼女は、事実、美しかった。上げられ
た髪の、うなじから見せる白い肩・・・。海岸の彼女は、そこにはなかった。
私は、糊の落ちてしまったシャツと、目立ってきた髭を恨めしく思う。
「その格好で町に出たら、交通事故が頻発するよ!」「これを羽織るといい」
彼女の肩に、ショールを掛け、店主に目をやり、うなずく。
「サアッ お嬢様、何を召し上がりますか? 何なりとお申しつけ下さい」
「うふふっ」 
彼女をエスコートするように、夕暮れの町を歩く私の足どりは軽く、昨日から
の疲れさえ感じなかった。「何故と何か」が、わかりかけて来たせいかもしれ
ない。
時折流れる涼風が、二人を誘うように、町外れのレストランへ運んだ。 

「まいったな。これはまるでお姫様とその下僕だな。」
慇懃に一礼してウエイターが下がった後で私は苦笑した。地中海風を意識した
インテリアの小さなレストラン。白い壁に飾られた貝殻のコレクション。
「あら、そんなことないわ。流浪の民に身をやつした王子様・・・。」
「私の正体を知っているのは姫だけですよ。だって・・・さっきのウエイター
の顔を見たかい?完全に食い逃げの心配をしてたよ。」
少し泡の立つヴァン・ロゼエが食欲と快活さを彼女にもたらす。
「ヴィーナスの誕生に」とグラスを上げる。
「これ、とてもおいしいわ、なにかしら?」
「メニューには鱸のパイ包み焼きって書いてあったけど。実はよく知らないん
だ。ラーメンと餃子の方が専門でね。」
「まあ、私も好きよ。」
「いえいえ、姫には餃子は似合いませぬ。」「まあ、王子様」
二人で、声をあげて笑った。
「よかった。やっと元気が出たね。」
テーブルのキャンドルがほのかに揺れて、彼女を一層美しく見せる。やっと答
えが出た。実は出会いの瞬間からわかっていたのに・・・。急に沸き上がって
きた欲望に我ながら浅ましく声がかすれた。
「行きましょうか・・・。」
瞳を見つめたまま、彼女は小さくうなずいた。

 濃紺のエーテルが、辺りをつつむ。あれほど弾んだ会話も今は無く、腰に添
えられた腕から伝わる体温だけが、二人の行方を探していた。綺麗に飾られた
ウィンドゥも、降るような星空さえも、二人に流されるBGMにすぎない。彼
女の額が私の胸にあてられた。 賑やかな町並みを抜け、丘に通じる坂道を登
ると、港の見える公園に出た。繋がれた船の明かりが揺れて見えるのは、たか
ぶる気持ちせいだろうか?彼女は、切り立った崖の上に作られた手すりに腕を
置き、空を見上げる。
「綺麗な星。」
「そうだね・・・。 片野が言ってたなっ、どの星にも名前があるって。」
「・・・・わたし・・」
「いいんだよ、お・ひ・め・さま。」
「わたし、尚美です。」
「YASUOさん、でしょ。リアシートのゴルフバックに・・・」
彼女は、海に向かう風に髪をとき、両手で自分の腕を抱き、肩をすぼめる。
「寒い。」
私は、彼女の肩を抱く。応えるように、私を見つめ、潤んだ瞳が静かに閉じら
れた・・・。船の汽笛が二人の時間を止めてしまう。私はなつかしい心の痛み
をおぼえ、腕の力を強めた。

 建築材のにおいがまだ、部屋にほのかに残っている。簡潔な内装と完璧にメ
イクされたツインのベッド。窓からは防波堤の先端に左舷標識の赤い点滅が見
える。沖で漁火がゆっくり上下している。バスルームから聞こえてくるシャワー
の音が喉を貼りつかせる。部屋に入ってから二人とも言葉が少ない。バスルー
ムの順番を譲り合ったのが最後の会話だった。シャワーの音が消えて、スイッ
チを消す音がした。
「いい気持ち・・・まるで生まれ変わったみたい。」
私はテレビのスイッチをつけて、煙草を意味もなくふかした。
「ビールはどう?」
「ええ、いただきます。」
備え付けのローブに包まれた肢体からできるだけ眼を離して、テレビのつまら
ないニュースを見ているふりをした。湯上がりの香りがほのかに漂ってくる。
番組が次々に現れては消えた。
「まだ・・・見るかい?」
「・・・いじわるね。」
唐突な激しさで、私の胸に身体をぶつけてきた。細い肩を抱きしめると、わず
かに震えていた。自然に唇が合って、体の熱さを互いの胸に感じた。ベッドカ
バーの上で、いたわりあうような抱擁を続けた。
「お願い・・・」
声がかすれて、ややハスキーになっている。
「・・・いいの?」
情熱的に唇で応えた。
「あかりを・・・・・・消して。」
 送り元の書かれていない小包を開けるように、ローブの紐をとく。
防波堤の赤い燈が、点る毎にカーテンを赤く染め、白い肢体を浮かび上がらせ
た。
沸き上がる衝動を抑え、水面に散った花びらを集めるように、指先を滑らせる。

豊かで張りのある胸をかすめ、うっすらと浮いた肋骨、くびれた腰・・・。柔
毛の上を
じらしながら通り過ぎると、小さなため息が漏れた。微かに震える太股をぬけ、
踝から
指の間へ滑らせると、苦しむような声をあげ、腰が浮く。
「・・・お・ね・が・い・・・」
つま先から、徐々に内側を昇る・・・。脚は、閉じられていたが、付根の部分
に隙間が
あった。 静かに指を添えると、泉は外花まで達していた。
オイル漬けのピクルスを摘むように、幾度も繰り返す。耐えかねたナオミは反
り返りながら、悶え、ベッドの縁から頭を出してしまう。ベッドにある物は、
甘い膨らみと、飢えた泉。興味が欲望に変わり、膨らみにしゃぶりつく。
「あ・・・・・・あ・・」
「きて・・・は・や・く・・・きて」
 こらえきれなくなったように、尚美は私の身体をひきあげて、唇を求め、膝
を大きな角度で開いた。私の先端がぬかるんでいるあたりをいたずらにさまよ
う。尚美の方から荒々しく舌を絡めた。私の指は、まだ敏感な蕾のあたりを、
触れるか触れないかの強さで刺激し続けていた。じれた尚美の指が私をつかみ、
自らに導こうとしていた。
「は・や・・・くぅ・・・」
苛立ったように眉根を寄せた顔がときおり赤い光に浮き上がる。私はようやく
浅く身体を繋いだ。尚美の声は息を吸い込むような音に変わっている。そのま
まで静止していると、尚美は深く繋ごうとして、腰を突き上げる。私が引くと、
私の腰に手を回して強く引き寄せる。潤みは後ろの方にまで達している。
「あ・・・・あ・・・・は・・・・あ・・・」
不意に私が深く身体を沈めると、先端が奥の襞を押し拡げる感覚があって尚美
の吐息が一瞬止まり、充足した深い吐息となった。私がストロークを早めると、
また性急な息遣いとなって、頂上が近いことを知らせた。
 私も忍耐の限界に近付いたので、一旦離れて仰向けになった。軽く手を添え
ると、尚美が上になって、何の抵抗もなく私を深く捕えた。顎を突き出した姿
勢で私の胸に手をついて、深く長く腰を上下させた。やがてこらえきれなくなっ
て、がっくりと上体を倒し、また唇を求めた。尚美は私を捕えたまま、足を閉
じて大きく腰をうねらせた。やがて、ピッチが緊迫したものになって、声は短
い悲鳴に近いものになった。
「・・・・い・ま・・・」
くいしばった歯の間からかすかに声を漏らして尚美は長く達した。私も大きく
放った。荒い呼吸はしばらく続き、私は尚美の小さい攣縮の余波を感じた。


 秋風が立っても真昼の陽射しは濃い。ロ−タリ−の端に車を停めて二人とも
しばらく無言だった。
「じゃあ、私、ここで・・・」
「本当に?・・・むこうまで乗ってもいいのに。」
「ありがと・・・でも・・・今なら私、一人でも歩けそうな気がする・・・」
「そうか・・・」
車から降りて、想いを振り切るように、ドアを閉めた。
「落ち着いたら、連絡します。・・・ありがとう。」
 私は、尚美が駅舎に向かう後姿を見ていた。彼女は、一瞬立ち止まり、それ
から、背中を伸ばした姿勢で建物の暗さの中に溶け込んでいった。


                           冬

 湖の朝は、白い霧の中で明けて行く。立ち枯れの木や潅木が幻想的な美しさ
を醸し出し、張り出した枝から落ちる露の滴が、限りなく波紋を広げていた。
 私がここへ訪れる度に、朝霧の中から現れる幻の「女」。そう・・、私がそ
れを思いだしたのは、尚美との出逢いから数日後の事である。彼女と駅で別れ
てから、何事も無かったように東京へ戻り、退屈だが気ぜわしい仕事に追われ
ていた私に、忘れかけた声で電話が入ったのは、三か月ほど過ぎた、週末の夜
だった。
 「こんなに素敵な所、誰といらしてるの?」 港町が一望できるペントハウス
の、ウインドゥに向かった席の椅子を引く。
「医局の若い連中がよく使うらしいんだ。」
「看護婦さんとでしょ?」彼女は、いたずらな目で、私を見上げながらバッグ
を膝の上に乗せる。
心地よいBGMと少し強めのアルコールが三か月の空白を埋め、初めての夜の
興奮が甦る。私は、早々に彼女を促し、このレイクハウスに誘った。

 ようやく目を覚ました尚美が、螺旋階段から降りてくる。つま先から現れ、
一歩進む毎に、その全容が証されて行く。すんでの所で、シャツの裾が現れた。

「お早う。お嬢様。」
「早いのね。」
「どうも枕が変わると眠りが浅くてね。」
「うーん。ああよく寝たわ。本当に素敵な所・・・よくここへ?」
「うん、友達のものでね。留守の間管理をまかされているんだ。」
「友達って、あの、前に言ってた・・・?」
「よく覚えてるね。そう、片野。ずっと探検ばかりやってる。」
「そう?それで、あなたはここで悪いことをしてる訳ね。」
「そんなことないよ。人の物だからね。君は特別・・・」
「上手ね。」
「本当だよ。」
「私、もう人を信用しないことにしたの。」
「一度の失敗で挑戦をやめるのは愚か者の考えであるとワイズマンは言ってる」

「で、その人は成功したの?」
「飛行機で海に墜落した。」
「まあ。・・・でも、いいわ。」
「実は今作ったんだ。」
「本当に上手ね。ますます信用できなくなったわ。よく寝たらおなかがすいた。」

「お嬢様も食欲には勝てませんでした。」
「じゃ、なにか作るわ。」
「その前に、その格好をなんとかしてもらわないと、食前に運動してしまいそ
うだ。」
「まあ」

 朝霧が晴れて水面は見えるが、風景は弱々しい光のもとで凍りついている。
ゆるやかに湖畔に続く路を少し離れて歩いた。樺の木が浅瀬で立ち枯れている。
それがあたりの静けさを強調している。尚美の吐く息が白い。
「奥さんにはなんて言って来たの?」
「何も・・・」
「信用されてるのね。」
「そういうわけじゃない。」
「大丈夫よ。別れてくれなんていわないから。」
「・・・・・・」
「また明日から仕事。」
 尚美は巧みに話題を変えた。彼女が、あれから外資系の会社に就職したとい
うことは、ここに来る車の中で聞いていた。考えてみると、私は彼女の経歴や、
正確な名前すら知っていない。聞くことによって深入りするのを避けようとす
る気持ちが働いている。
「私ね、子供の頃は猫になりたかったの。」
「猫?」
「そう。猫は自由だし、飼い主に媚びないし。」
「なるほど。」
「それでね、小学校で将来の希望を書かされて『猫になりたい』って書いたら、
ふざけてるって、ひどく怒られたの。あれは初めての挫折だったわ。」
「人間は挫折を繰り返して成長するものさ。」
「でも、成長なんかしたくない・・・」
「・・・風が出てきたね。ここは寒い。帰ろうか。」
「そうね。あら・・・車の音・・・」
 私にもその音はさきほどから聞こえていた。他のレイクハウスに来るのだろ
うと思っていたが、音は次第に近付いてくる。かなり大きくなって、私はそれ
が片野の四輪駆動車の音であることに気がついた。
 家に二人が着くのと、片野が車から降りて来るのが同時だった。
「やあ、おまえの車が見えたよ。邪魔だったかな?」
片野はまるで、今が初夏であるかのような格好をしていた。私の傍らの尚美を
見ても特に驚いた様子はなく、快活に声をかけた。
「ようこそ、秘密基地に。ほんとうは入団試験があるんですが、あなたの美し
さに免じて、特別団員にお迎えします。それにしても日本は暑い。」
 部屋の中に入って、片野が着ているものを脱ぐと、下はTシャツ一枚だった。

「なんなんだ、この暑さは。こんな暑いところにいると、脳がふやけそうにな
る。」
「もう帰るから、好きなだけ寒くしてくれ。」
「えっ?もう帰っちゃうの?せっかく、いいブランディを持ってきたのに。」
「それを飲みたいのはやまやまだが、明日一番で仕事がある。」
「また、人体でプラモデルを作るわけだな。あいかわらず暗い趣味だな。」
そういうと尚美の方に向かって
「えっと・・・」
「ごめんなさい。私、栂丘尚美です。」
「や、どうも片野です。ま聞いてくださいよ尚美さん。こいつはね、ガキのと
きから、細かい物をいじって壊すのが趣味だったんですよ。それが昂じて、つ
いに体を切ったり貼ったりするようになったんですよ。病気が進んだっていう
んでしょうかね。」
といって、ひとしきりいかにも面白そうに笑った。尚美もひきずりこまれて、
声をあげて笑った。私一人聞き飽きた冗談に渋い顔をしていた。片野は初対面
から人を惹きつける天性の魅力を持っていた。
「ところで、尚美さんも同じお仕事ですか?」
「いえ、私は・・・」
「じゃあ話が早い。もう少しゆっくりしていきませんか。僕も人間がいない所
にいたんで人間に飢えているんです。そうと決まったら、おまえはさっさと帰
れ帰れ。」
「でも・・・」
「大丈夫ですよ。とって食ったりはしません。ちゃんと送りますよ。もしなん
なら、もう一晩泊まりませんか?あ、いやいやいや大丈夫。僕はこんなに暑い
所では眠れませんから、庭にテントを張って寝ます。」
「・・・いえ、やっぱり失礼します。」
「そうですか・・・いやあ残念だなあ。せっかくお知り合いになれたのに。じゃ
あ、どうせ車は運転しないのだから、少しお酒を付き合いませんか?いけるん
でしょ?」
尚美はためらっていたが、結局片野のペースに負けて、腰を据えた。私も付き
合ったが、アルコールは口にしなかった。
 片野は話術にたけていた。アマゾンで原住民につかまった話や、カラハリ砂
漠で道に迷った話など、何度聞いても、聞き手を話にひきずりこまずにはおか
なかった。結局私が尚美を伴ってレイクハウスを後にしたのはすでに午前2時
を回っていた。
「おもしろい人ね。」
「けっこう優秀な建築家なんだけど、一つ仕事を終わるとああやって探検に出
かけ、金が底をつくとまた仕事をやりに戻ってくる。そのおかげで、あまり評
判はよくない。」
尚美は片野が気に入った様子だった。もっとも、片野が初対面で嫌われたのを
見たことがない。そのせいかどうか、以前は女性関係も派手だったが、最近は
どのようになっているのか、私も知らなかった。
  高速道路が次第に都会のなかへ入っていく。この街は眠ることを知らない。
尚美はブランディの酔いも手伝って、助手席で眠っている。私は、夏の終わり
のあの夜を思い出していた。あのときも同じように尚美は眠っていた。まるで
捨てられた小猫のように。今は、気位の高い、しなやかな獣がよこたわってい
るようだ。
  尚美は郊外の住宅地に住んでいる。私も来るのは始めてなので、聞いていた
あたりで車を停めた。
「着いたよ。」
しばらく状況がのみこめない様子だった。
「まあ・・・眠ってしまったみたいね。」
「どっちに行けばいい?」
「ええ、ここで大丈夫。歩いてすぐだから。明日は早いんでしょう?」
「ここまできたら同じだよ。」
尚美は自分でドアを開けて降りた。まだ足元が確かでない。私もエンジンを止
めて降りた。都会独特の身を切るような風の中に、仄かに海の匂いが混じって
いる。ここが埋立地にできた住宅街であることを思いだした。
「ここで大丈夫。・・・少し寄って、コーヒーでも飲んでいく?」
「・・・いや。じゃあ、ここで。」
私生活を見たくない、という気持ちが互いに働いていた。
「じゃ。ありがとう」
尚美は手を少し振って住宅街の一角に去っていった。私は車に戻り、できるだ
け静かに発進させた。
  街に向かう高速道路から、明け始めた都会が靄の底に見える。後ろに流れて
いく建物は無限に続くモノクロームの画面のようだ。
  少しでも寝ておかなければ、と私は思った。


                                 春

  この街はいつも風が強い。春先には特に砂混じりの強い南風が吹く。ビルの
谷間を茶房「まつうら」まで歩く間に何度も眼に砂ぼこりが入った。「まつう
ら」は、古い木を使って内装してあって、中の照明は暗い。小さな窓から裸の
街路樹と大通りが見える。尚美を捜すのにしばらく眼を慣らす必要があった。
「やあ、元気?」
「ええ。お忙しいんでしょ?」
「いや、開店休業だよ。なんせ古い街だからね。みんな、かかりつけは親の代
から決めているって人間ばかりでね。正直、後悔しはじめている。」
  私は、その3月に病院を辞めて、この古い繁華街の一角に小さな診療所を開
業したばかりだった。あれから、片野と3人で何度か飲んだりしたが、尚美と
2人で会ったことはなかった。尚美も、次第に責任のある仕事をてがけるよう
になっていたし、私も開業の準備に追われていた。
「この間の誕生パーティー以来だね。あの時はすごかった。」
「まあ、この間って、もう半年近くになるわ。」
「そうか・・・あれは暮だったね。・・・どう?あれから片野と会った?」
「ええ。何度か。」
「あいつも、しばらくは落ち着くだろう。」
「なんだか、今度はかなり大きな仕事らしいわ。」
「仕事はできる奴だからね。」
「奥さんはお元気?」
「ああ。すっかり教育ママになっている。」
「本当は・・・」
「?」
「・・・家庭に入るのが一番なんでしょうね。」
「それは、その人次第だろう?自分にとってなにが大切か・・・」
「私に大切なのは・・・」
言葉が途中で途切れた。話題を変えるように
「そうそう。こんど片野さんがキャンプに行こうってるんだけれど、あなたは?」

「うーん。今が大切な時期だからね。」
「・・・そうね。」
「まあ、ちょっと、予定を見てみるよ。行けるようだったら連絡する。」
「2人で行ってもいいの?」
冗談めかした口調だったが、眼は私をまっすぐ見ていた。私は、眼をそらして、
日の暮れた大通りを見た。強い風に並木の枝が揺れている。
「もちろん。第一、それは私が決めることじゃない。」
「そうね・・・」
「さ、食事に行こうか。」
  表に出ると、風が温度を下げて体を切り裂く。街はすっかり夜の装いになっ
ている。気の早い酔客の姿も見える。コートの生地を通して、よく知っている
体温と手慣れた情事の予感を感じた。


  その年の夏、私はこの店で尚美と別れた。
  
  
                             再び秋
                             
  砂丘は南北に長く伸びて、端は霞んで見えなくなっていた。タイヤがスタッ
クしない範囲で、できるだけ海に車を近付けた。貧弱な草が砂にしがみついて、
わずかな緑色を与えていた。台風の名残で波が高い。ウエットスーツを着た若
者のグループがサーフィンをしているようだが、見ていると、立とうとしてす
ぐに波間に消えてしまう。
「やっぱり、まだ風が強いわね。」
妻がトランクからマットをとりだしながら言った。
「台風が行ったばかりだからな。」
子供達は、もう波打ち際で砂遊びを始めている。敷いたマットの上に座って見
ると、波の高さは子供達を今にも呑み込んでしまいそうに見える。
「大丈夫かしら?」
「まあ、あそこなら大丈夫だろう。でも、もうちょっとこっちにくるように言っ
たほうがいいな。」
大きな波が打ち寄せて子供達の足元を濡らす。妻が心配そうに駆け寄っていく
が、子供達は嬌声を挙げている。見ていると、そのまま妻も砂遊びに加わった
ようだった。
  私はマットの上に片肘をついた姿勢で煙草を吸った。強い横風に、なかなか
火はつかなかった。仰向けに寝て煙草を吸うと、煙が北の方に吹き飛ばされて
行く。空が深い。さまざまな形にちぎられた雲の断片が、低気圧の方角に、か
なりな早さで流れて行く。視野のすべてが空と風とに占められている。私は眼
を閉じた。オレンジ色の残像も北に流れ続けている。
「なにか飲む?」
眼を開けると、妻の顔が逆光になっていた。
「うん、コーヒーをもらおうか。」
座り直して、ポットに入れたコーヒーを飲んだ。まだ、かなりな熱さを保って
いた。
「最近、あまり飲みに行かないのね。」
「まあ、仕事も忙しいし・・・」
「片野さんは?」
「あいつも、今度はなかなか大きい仕事だから。でも、来年はアフリカだって
さ。」
「結婚しないのかしら。」
「ま、あれじゃあ無理だろうね。」
「そういえば、この間の女の人は?」
「え?」
「ほら、家にも、ときどき電話があった・・・」
「ああ、つきあってるんじゃないかな。最近片野にも会わないんで、知らない
な。」
「そう・・・あなたは?」
「俺は知らないよ。片野の彼女だろ。」
「そう・・・」
また子供達の嬌声があがって、妻はそちらのほうに駆けだして行った。私も妻
の後から子供達に近づいて見ると。砂の城が上げ潮に洗われようとするところ
だった。二度、三度、ひとしきり大きな波が引くと、わずかな砂の隆起だけに
なっていた。
  北の方角に、かなりの遠さで煙が上がっているのが見える。人影は小さな点
になって、性別もわからない。漁師が流木を集めて燃やしているようにも見え
た。明るい陽光の下では炎も見えない。
「なにかしら?」
「さあ・・・」
「行ってみない?」
「いや・・・やめておこう。」
  私は、またマットに戻って横になった。妻も腰を下ろす。また、眼を閉じる。
顔の横に妻の体温を感じる。子供達は、もう次の製作にかかっているようだ。
  風は休みなく南から北へ吹いていた。
                                (終)