この小説(のようなもの)は中央区、江東区、墨田区あたりに住んでいる
アマチュア無線の仲間で輪作したものです。ですから、格調が著しく低い
部分があるのは、そこを書いた人の問題であって、決して私の格調が著しく
低いわけでは・・・・ないと思います。

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JR1GKY,JQ1KDK,JS1QUY and JH1STJ
      「千歳屋鍵店」


「すみませーん。 こんにちはーー。」
「はーい、いまいきます。いらっしゃいませ!」
「この鍵の、合い鍵を作って下さい。」
「はい、分かりました。 少々お待ち下さい。」
ここは、本所・松井丁。下町の名残を残す一角に「千歳屋鍵店」なる古店があ
る。
主人の名は「北田 開康」。鍵屋仲間でも指折りの名人で通る錠前師である。
表向きには、合い鍵などを作ったり錠前を売って商売をしているのですが、妻
にも言えない裏の家業が有るのです。
「ルルルル・・・・ルルルル・・・・」
「あなた!電話よーーっ。」
「今、手が離せないから、でてー」

「もぉー、頭にきちゃう。 またあの人だわーっ。」
「間違え電話か?」
「担々麺 4つですって!」
開康は、出来た合い鍵を客に渡すと、前掛けを外し工具箱の点検を始めた。
「ちょっと、出かけてくる。」
「お仕事? 夕飯は?」
「深川の御隠居が、倉の鍵が壊れたっていってたろ! ちょっと見てくる。」
「遅くならないでよっ、今日はアレの日よ!」
靴を履きかけた開康はつまづきながら、店を出た。

「アケヤスちゃーーん、遅かったわねー。 お客さんがお待ちかねよ。」
「今日は、4人もですか?」
「そおヨォ、ダイアルが一人に、シリンダーが二人。」
「もう一方は・・・?」
「わかんないのヨー、それが。内側にあるみたいでさぁ。」
北田にとっては、鍵の種類など問題ではなかった。どんな鍵でも一分あれば開
錠出来る技術を持っていた。それでも時間のかかる時があるのです。好みのタ
イプですと・・・。

「それでは、一人づつこちらに来て下さい。」
「拝見しますよ。」
「・・・・」
「ステンレスですね、痛いでしょ?」
「・・・・ハイ・・」
「すぐですからね・・・と、ホラ外れますよ。ハイ!」
「5486番です。忘れないように。」

「次の方、どーぞ!」
「ハイ、見ますよーー。 皮ですね。座って下さい。」
「こんなに食い込んじゃって・・・たまらんでしょー」
「・・・・」
「ハイ、開きましたよ。合い鍵は明日ここに取りにきて下さいね。」
 
「どーぞー、お入りくださーいっ。」
「おっ! 凄いですね、こいつは、アメリカで使われだした新式ですよ。へーっ」

「鍵が要らないタイプでしてネ、鮫の歯の様に繊維が内側に向かって織り込ん
でありまし てね、外れないんですょ。」
「心配しなくても大丈夫! このオイルを使えばすぐです。」
「チョット失礼! 全体に塗りませんと、効果がないので・・・」
「ここにもねぇ・・・ヘヘヘ」
「ハイ、取りますよ!」
「いいでしょ? このオイル! あげますよ。」

「ママさーーん!終わったよ。」
「アケヤスちゃーーん、相変わらず凄いテクニックね!」
「そうでもないけど、今日は多いねぇ」
「そうなのヨ、新しい刑事物の撮影があってさっ、予算が無いもんだから、古
い手錠を
 使ってんのよ。」
「なるほどね! 鍵が無い訳だ!」

北田は撮影所の裏門を後にした。
 
                               *

ここは、本所・松井町。「千歳屋鍵店」に開康が帰ってきた。
「あら、早かったのね。食事にする?風呂にする?それとも・・・」
「いや、なんにもしない。毎回ご隠居の仕事は疲れるわ。やれやれ。」
「ふーん。せっかくレバニラのにんにく炒めを山芋であえてみたのに・・・」
そこへ、店に入ってきたのは、一目でただものでないとわかる、目付きのする
どい、三十半ばであろうか、ツングース系の顔(どんな顔じゃ)をした男であっ
た。
「すいませんね。今日はもうしまいなんですが・・・」
男は、辺りを見渡して、女房が奥にひっこんだのを確かめてから
「実は、ここで担々麺をお願いできると聞いてきたのだが・・・」
「シーッ!声が高い。ちょっと表で・・・」
開康は、客に目で合図すると、わざと大きな声で
「どうもすみません。明日は朝からやってますんで。」
と言って、一旦奥に引っ込むと、女房に
「ちょっと煙草を買ってくる。」
といい置いて、表に出た。ツングース系の顔(どんな顔じゃ)をした男は電柱
の影で待っていた。男はポケットから図面を出した。マニアに特有の思い詰め
た表情だった。
「実は、これなんですが・・・」
「言っとくけど・・・高いよ。」

                                   *

男は図面と半金の5万円を北田に渡し、闇に紛れるように去って行った。

開康の書斎は、倉庫の片隅にあった。天保の時代から受け継がれた錠前や文献
で十坪程のそこは、埋まっている。古くは江戸城大奥、お局様の忍び扉の鍵か
ら、都市銀行のエマージェンシィー・キーまでが、無造作に置かれている。広
いディスクの上にひろげられた、輸入物のPENTHOUSEを、宝物の様に
大切に閉じて自慢の金庫に納めた。
「さぁてと、おちごとしゅるかなー。」北田は燃える仕事を前にすると、幼児
言葉が出るのであった。 図面を広げ、仕様書に目をやる。
「うーーむ。生後三年のムートンで表面を内側にして外側は小牛のなめし革・・・
なに!?完全防水のタイムロック付き!!!」
開康は、完成した「ブツ」を頭に浮かべて、思わず生唾を飲み込んだ。勿論、
ペントハウス嬢もご一緒である事は、言うまでもない。
「今ごろになって、ニンニクちゃんが効いてきまちたネー。ヨチヨチ。」など
と何やら、ゴソゴソしながら、型紙の制作を始めるのであった。
「チョキチョキ、チョッキン、チョキンナー」北田の40年来の口癖である。
「型紙かんせーデーーチュ。智恵美タンでためしまちょー!」妻の名である。

次の朝、北田の頬にはクッキリと5本、指の跡が付いていた。

                                     *

 「ハロー パリからコレクトコールですが、お受けいただけますか。」
「ボンソワール 元気ー?私です。」
 妻のめぐみの明るい声が、深夜の淀んだ部屋の空気を吹き払っていく。
 紹興酒の酔いが、急に冷めていく。
怒りとばかばかしさに腹を立て、ピッチの上がっていたグラスをテーブルに置
くと、夢は急激に現実に引き戻されていくような気がした。
 しかし、今夜の妻の明るいコールは武田にとっては、むしろ救いになった。
悪夢だった、そう、あれは悪い夢だったんだ。

「・・・な、なんだ?これ? 理恵!?」
微かに開けた窓から香ぐわしく入ってきていた梅の花の香りまでもが、一瞬に
その香りを変えてしまっていた。
「だから・・」 「今日は、駄目って・・言ったでしょう」
湯島天神への急な男坂を登るときに武田は気付くべきだったのだ。
理恵の歩行は既に変だった。一歩ごとに左右に揺れ、武田にもたれ掛かる理恵
を、自分への思慕と紹興酒の酔いの性為と勝手に思っていたのである。
「好奇心だったのよ」 
「友達の尚美が、面白いものがあるって言ったのよ、倦怠期の恋人同士に最高
よって」
「尚美、プレゼントだって・・、自分ですぐに外せるっていうから」
「でも、どうしても、外れないのよ」
一見柔らかそうに見えるムートンとなめし革の組み合わせは、理恵の汗を吸い
込み、がっちりと食い込み、外す手掛かりさえありそうにはない。
「尚美の恋人っていう人が持ってたの、ツングース系みたいな顔の・・」
「やめようかしらと思ったんだけど、尚美が・・引っ込みがつかなくなって」
「どこの店なんだ、こんなもの作りやがって、行って外してもらうしか・・・
いや、ダメだ、見せられるか」
「ねぇ、どうしよう。こんな手錠姿じゃ、明日お店に出られないわ」
武田は、顔を近づけむっとする革の臭いに辟易しながら、なんとか外そうとし
てみたが、指は虚しく革の表面を滑るばかりだった。
早春の冷たい風が吹き込んでいるにもかかわらず、武田と理恵の浮かべる汗が
革の臭いと混じり合い、狭い部屋は、むせかえるような匂いに包まれている。
「おい・・、ここに・・電話番号が」 
なめし革の最も細くなっている部分を見つめていた武田が頓狂な声をあげた。
「・・千歳屋鍵店・・3xxx-5151 北田・ 5151 ? こいこい・・・・ふざけた
野郎だ!」

「ああ、尚美どうしてこんなことを!」
「その詮索は後だ! ・・・電話をして来てもらうしか・・ 今何時だろう?」

「パリの女房が電話をしてくる筈なんだ、早くしなけりゃぁ」

                                    *

「あなた、ごはんよ」女房が奥から声をかける。「あいよ」北田がたちあがる
と、電話がなった。「はい、北田です」「千歳屋鍵店ですね」かぼそい女の声
である。「すぐ来てほしいんです。」「これから夕飯なんですよ。明日じゃま
ずいですか?」「緊急事態なの」と女はうわずった、足が地についていないよ
うな声をだした。

北田が工具を持っていわれた住所にバイクでかけつけると、女の住まいは小さ
なマンションの3階だった。ドアをノックしても返事がない。ノブをまわすと
あっさりドアがあいた。部屋にはいって北田は息をのんだ。そのスタジオ形式
のワンルームのまんなかで女は天井からつるされており、前でしばられた両手
にかろうじて移動電話をもっていた。
「縄をほどいてください」「わたしは鍵屋ですが」「いいのよ、どっちでも」
「はいはい」
北田はおとなしく作業にかかった。女を縛っているロープは天井の照明器具を
つるフックにひっかけて、その先をダイニングテーブルの足にまわしてしばっ
てあった。家具も重いが女は相当軽いにちがいない。 北田は女をそっと床に
おろすと、手早く縄をほどきはじめた。「失礼しますよ。」 目のやり場に困
ると思いながらも、北田の目はすいつけられていくのであった。

縄は芸術的なほど美しく女のからだをしばっており、簡単にはゆるまないが女
のからだにはくいこまないようになっている。「プロですね。」と北田はうなっ
た。「高村がやったの」「高村さんが!?」「そう。あなたにこの間注文して
つくってもらったものがあったでしょ。彼があれを使う前に私が女友達にあげ
ちゃったの。そしたら、今日彼がきてあれがないのに気がついて、暗い顔をし
て、私をしばりあげていっちゃったの。がまんできなくなったら電話しなさいっ
て移動電話をもたせてくれたわ。」「そうですか・・・・」
北田は商売柄、余計な質問はしないことにしている。どうして高村を呼ばずに
北田を呼んだのか不思議だったが、何もきかなかった。「おいくらかしら。」
「お代は結構です。」「そう、ありがとう。」女はすぐに何かを身にまとう様
子もみせず、北田をまっすぐに見た。「縄られた跡が痛いわ。軟膏を塗ってく
ださる?」女の白い肌はところどころ赤くみみずばれのようになっていた。
「私には家族がいます」と北田は言った。
「軟膏を塗るだけよ。すぐすむわ。」
北田は軽いめまいを覚えながら女のいうとおりにした。抜き差しならなくなっ
たところで、ドアがあいて高村がはいってきた。
「おれの女になにをするんだ。」高村はおだやかに言った。
「す、すいません、そういうつもりじゃなかったんですが、呼びだされて・・・」

「言い訳しなくてもいいよ。すまないという気があるなら、ひとつこっちの頼
みをきいてくれ。」
「な、なんでしょう。」
「あんたの奥さんはべっぴんだったねえ。」
「そ、それだけは、かんべんしておくんなさい。」
「バラエテイーがあるっていうのはいいことなんだよ。まあ、考えておいてく
れ。」
と、高村は名刺を北田に渡した。それには「SWAPPING CLUB 隅田川  理事 
ケン高村」と書いてあった。

                                     *

音を殺したノックの気配がした。
武田がドアを開けると、丸っこい体型の小男が頭を低く下げていた。
「坦々麺のご注文はこちらでしょうか?」
「なんだって?ふざけてる場合じゃないんだ。鍵屋だろ、早くしてくれ!」
男は度の強い眼鏡をずり上げて、その底から武田を見た。眼は笑っていなかっ
た。
「ほほう、お客さん素人ですな。」
そう言いながら、勝手にベッドの理恵の所に行って、瓶の底のような眼鏡を5
cmくらいに近付けて、穴があくほどじっくり見た。
「ほうほう」と満足そうな吐息を洩らしながら
「どうですか。この芸術品。ムートンとなめし革の防水加工、タイムロックは
ICで制御、メカニズムを感じさせない・・・」
「わかったわかった。わかったから、これをなんとかしてくれ!」
「開けろと・・・?」
「決まってるじゃないか。お!もうこんな時間か!頼むから早くしてくれ!」
「あ、お急ぎで?まあ・・・できなくもないですが・・・」
「頼むよ。急いでるんだ。金は払うから!」
「ほうほう、ではでは・・・っと、ここをこうちまちょうねー。ちょっとこれ
はこうちまちゅよ。はいはいごめんなちゃいねー・・・」
「Ah・・・Ah・・・」
「チョッキン、チョッキン、チョッキンナー・・・ほーらほーら・・・」
「Oh・・・A・・・mmm・・・u!」

                                     *

男の指はその幼児言葉とは裏腹に繊細に動いた。一番細い部分の内側に有る制
御回路。
ここには湿度センサーも埋め込まれている。男は指にティッシュペーパーを巻
き付け、その部分に指を這わせた。「Ah・・・」だめだなーお嬢さん。ここ
が濡れている限り外れませんよ。「ダッテー、そんな事されたらー・・」しか
たない、アレを詰めましょう。
男は鞄から金属製の箱を取りだした。その箱の上部には穴が開いていて、綿が
少し出ていた。馴れた手つきで丸くすると、理恵のそこに幾つも詰めだした。
「A、Ahn・・」
「何するんだ! よせ!」武田が肩に手を掛け、振り向いた男の目を見た瞬間、
「すまん、続けてくれ」その目は狂気に程近い真剣さを放っていた。
しばらくして「キュルキュル」と何やら小さなモーター音がした。
「ハイ、外れますよ。私が外しましょうか?」 
「冗談じゃない! これをヤルから早く帰ってくれ!」武田は男に証券の様な
紙きれを渡し追い立てた。
「へへっ、へへへー。 お楽しみで?」「また、何かあった・」 バタン ガ
チャ。
武田がベッドに戻ると、すでに理恵は果てていた。
「理恵・・理恵・・」ゆり動かす。
「もう、堪忍して・・・オネガイ・・」細い声で答えるとシーツを手繰り寄せ
背中を向けた。
開康はホテルのエレベーターのなかで武田から渡された証券の様な紙切れをポ
ケットから取り出し確かめた。「なんだこりゃ!」
「JCC−300 50MHzSSB」
裏には、走り書きで何か書かれていた。

                                         *

  “負けだよ、俺の負けだ。後、手筈どおりによろしく”
 北田は、度の強い眼鏡の奥からその細い眼をキラリと光らせ、無造作にその
紙切れを右のポケットにつっこんだ。口元には満足そうな笑みを浮かべている。

 「キャッ!」
1階でエレベータを待っていた若いカップルの女の方が短い叫びをあげた。
北田はその牝鹿のような女の身体をねめるように一瞥し、するりと二人の脇を
すりぬけながら、すばやくそのでん部に黄色い手を這わせていた。
 「コンチクショー! なにしやがんだよー」
女は可愛い小さな顔を振り向けると、その顔からは想像もできないような罵声
を北田の背中に浴びせた。
  「この背むしおとこぉ」
 「やめろよ、ろくなことにならないよ。かかわるなよ」
  連れの男が弱々しくなだめながら、まだ何か言いたそうに唇を震わせている
女を抱えるようにして、開いたままのエレベータに乗り込んだ。
  「なによ芳樹、あたしが変なことされたのよお」
なるほど、北田のその小柄な丸い背をいっそう丸めたその姿態は、女の言うよ
うに、ノートルダムの背むし男を思わせるような凄みさえ感じられた。
 
 北田は、ホテルを出ると、すぐ右の路地に入って行った。
  「うまいこと言いやがる。しかし、最近の若い女は口が悪いな。」
  「あの男、何処かで見たような気がするが・・」
北田は灯の消えたビールの自動販売機を見つけると、慎重に左右を見、人影の
無いのを確かめるとすばやくその陰に隠れた。
 背中に手を回し、ごそごそと何かを取り出すと、北田の背が伸びた。歯医者
で口をすすぐときに使うようなアルマイトの小さなボールだった。
 「ふっ 俺にかかれば、変装なんて、こんなもんさ。」
北田は眼鏡を外しながら、そのにぶく光るボールを路地の奥に放り投げた。
  ウーーワン ワン!!
いきなり、路地の暗闇から黒い物体が北田に襲いかかった。
  「ウワぁー」思わず叫んだ声を飲み込みながら、北田は一目散に逃げだした。
度の強そうな眼鏡が宙に飛んだが、それどころではなかった。

  人影の無い苗場のゲレンデを青白い水銀灯が照らしている。
シャトレーヌの広い窓からは、昼間の混雑が嘘のように広々としたゲレンデが
手招いているように見える。細かな粉雪が次から次へと落ちて、すべてを白一
色に隠していく。

  プリンスホテル3号館1階にあるバーラウンジ「シャトレーヌ」に武田が疲
れを隠せぬように入ってきた。
  「こっちだ武田」
  高村が、すばやく武田を呼んだ。
  「まいったよ、・・3回もだぜ、理恵のやつ」
  心底疲れはてたような武田はドサッとソファに倒れ込んだ。
高村の向かいのゆったりとした長椅子に埋もれていた小柄な男がゆっくりとし
た丸まっちい動作で身を起こした。
  「そろそろ、別れの潮時かね。いつでも手を貸すぜ」

                                        *

「いつもすまんな。どうも最近めぐみが疑いはじめたようなんだ。」
武田は溜め息をついた。白髪がめっきり増えて、眼はおちくぼんで死相が出て
いた。
「もう若いのは、ほどほどにしたらどうだ?そのうち死ぬぞ。」
「これをやめるくらいなら、生きていてもしかたがない。しかし、理恵はほん
とに『底無し』でね。もうこれでいいって言ったことがないんだ。」
「ほう、武田が負けるんじゃ、半端じゃないなあ。一晩で26回の伝説を持つ
男でも、満足させられないとは・・・」
「昔の栄光だよ。」
「先週の話じゃないか。しかも家でも毎日だろ。もう病気だな。」
「まあ、せめて日に3回におさえようかと・・・」
「それでも充分病気だよ。」
その時、ボーイがプラカードのようなものを持って、客の間を回りはじめた。
「お客様で、武田様はいらっしゃいませんか?」
武田が合図すると、ボーイがやって来た。
「お部屋でお連れ様がお待ちになっているそうです。」
武田は高村を救いを求めるように見て、屠殺場に引かれて行く牛のように出て
いった。ただし、出ていく前に高村と自分の料金を、レシートの裏にきっちり
計算していった。
長椅子に埋もれていた小柄な男は、その後姿を見届けてから、高村の席にやっ
て来た。丸い体に20年くらい前にはやった、赤いダウンのベストを着ていて、
下は広がる前に裾を切られてしまったベルボトムのジーンズに、すこしでも足
を長くみせるためのロンドンブーツをはいていた。よく見るとベルトのバック
ルはピースマークだった。
「あれが、そうですか。」
「そうです。棒々鶏までお願いして、誠に申し訳ない。」
「なに、仕事ですから。」
「もしうまくいけば、彼の命より大切なものをくれるそうです。私からも飛び
切りの美人を紹介しますよ。」
「いや、私には家族が・・・」
「またそれですか。こないだお店にうかがったとき、拝見しましたが、ずいぶ
んお若い奥さんでしたね・・・こんど紹介していただけませんか。」
高村のツングース系の広い額に好色な光が(どんな光じゃ)宿っていた。
「いやいやいや、ちょっと・・・女房には秘密の商売で・・・」
「そうだ。私の部屋に来ませんか?ちょっとした趣向があるんですが・・・」
「いや、私には家族が・・・」
「まあまあ、損はさせませんよ。さ、行きましょう。」
北田は椅子にしがみついていたが、高村に首筋をつかまれてひきずられていっ
た。
「ちえみたーーん。たすけてくれーー。」
バーラウンジを出て、開康をひきずりつつ部屋にむかう高村のツングース系の
広い額には、すでに好色な汗が(どんな汗じゃ)大量ににじんでいた。

                                        *

「あなたぁーっ、いつまで寝てるつもりなの!」
「・・だめです、もう無理です・・・・」
「お味噌汁が、冷めてるわよ!」
「・・勘弁して下さい・・・ウッ・・いい・・・」
「何が『いい』のよ、こんなにふくらまして!」「ギュッ」
「ウッ・・・」
「ウッじゃないわよ、きたないわねー、こんなに飛ばしてモー。やだわ。絶対
やだ。」
開康が寝室から、智恵美のパンティーをシャツと間違え、もがきながら出てく
る。
「昨日、理恵さんから電話があったわよ。」
「何だって?」
「機械のお礼を伝えてくれって」
「あっそう」
「あなた、変な機械作ってるんじゃないの?」
「この味噌汁、変な臭いがするなぁ」
「いつまで、そんなもんかぶってんのヨ!」

開康は設計事務所へ向かう途中、噴水のある公園に立ち寄った。待ち合わせの
時間には、まだ1時間程余裕がある。開康と智恵美が出合い、愛を語らった想
いでの場所である。
今は水も止められ、薄氷が張っていた。
「なぜ、智恵美たんは『理恵さん』と私に告げたのだろう?」
「私ですら、彼女の名字も知らないのに・・・」
「武田さんが知らせるはずがない。」
「そういえば智恵美たん、全然求めてこないし・・・以前は毎日だったのに・・・」

開康は、朝ゾンビーな頭で点を結ぼうとしていた。公園の小道には、まだ霜柱
が融けずにあり、開康の歩調に音を立てている。シャリ・・・シャリ・・・シ
ャリ・・・
「高村さん・・そうか! 高村が引き込んだな! ツングースのやろー」
「そういえば、スキー場で金髪のおねーちゃん達に俺の名刺を渡してたし・オ
イシカッタケド」
シャリ・・シャリ・・シャリ
「んじゃぁ、朝のあの臭いは高村の・・・! くっそー!」
シャリ・シャリ・シャリ・グチャ
「ンッ! クッッッッソー」

「・・・でしゅから、タイムロックの設定と解除に付いても・・・・・
また、非常時の緊急解除も、ご覧の通り・・・・・・停電時には自動的に・・・

    ・・・・何か変更要請もしくは不明な点が無ければ、制作にかかりま
すが?」
「千歳屋さん、相変わらずあなたの設計は完璧ですよ。 お願いします。」
「それでは、これから銀行さんに出向いて、打ち合わせてまいります。」
「あっ! 北田さん。」
「はい、何でしょう?」
「めずらしいですね、あなたがコロンを・・」
「いやーっ、そのーっ、あのーっ、公園でネ・・・」

                                        *

朝、一面を覆っていた霜柱はその痕跡も残していなかった。
午後3時をまわった公園には、ときおり強い北風が吹き抜けている。
「わっ、ぷっぷっ」
突風に舞いあげられた乾ききった砂塵は砂ぼこりとなって、噴水の縁石に腰を
掛けて考え込んでいた北田に、容赦無く吹き付けた。
「この砂ぼこり、まだ臭うような気がするな。」
「公園に犬なんて連れて来るんじゃないよ。犬なんてえのはベッドでバターな
めさせておけばいいのよ・・・」
北田は、仕事以外の時には、自分の趣味の世界でしか物事を考えられない人間
だった。
「しかし、なんで高村さんが智恵美に・・」
「俺は、約束どおり、理恵さんをこの世界に引きずり込んでやったはずだ。」
「理恵さんはもうノーマルなのでは、ジュースなんて一滴も・・」
「武田さんとやらは、これで、そんな理恵さんに愛想づかしということで、う
まく別れられるはずだし、高村もあの理恵という女をストックにして万々歳の
はず、・・・」
「高村の注文品は俺の製作意欲を満たしてくれるし、3人に不満はないはず、・・
高村の野郎、まさか・・半金の5万円を払うのが惜しくなったのか」
「武田があの・・理恵をそれとなしにいかせるという・・賭けの負け10万を
払う気がなくなって、」
「でも、あのJCCー300とやらは証文になってるからな」
 北田は考えあぐねて、埃にまみれた顔をハンカチで拭おうとしてポケットに
手を突っ込んだ。しかし、ポケットから抜きだした北田の右手には、小さく丸
まった薄桃色の布切れが握られていた。それは、・・・智恵美のパンティーだっ
た。
北田は反射的にその小さな布切れに鼻を埋ずめた。かなしい北田の性だった。
「ぷわぁ」
不快な臭いが北田の鼻孔を突き刺し充満した。高村か、武田か・・・
  北田の脳裏に、智恵美に対する怒りとともに、二人の男に対する憎しみが吹
き込んだ。また、砂塵が舞った。

                                        *

「ま、いーか・・・。どうせ俺はいつも損な役回り、さ、こーんな寒い日には
早く帰って智恵美タンとおこたに入ってあーそびましょ。ふっふっふ、あーし
てこーして・・・」
すでに前は磁針120度の方角に(ナサケネー!)ふくらんでいた。
  開康が気を取り直して、右手の指で薄桃色の布切れをクルクル回しながら公
園を出ようとすると、むこうから、やはり黄色の布切れをクルクル回しながら
やってくる男とすれちがった。デューク・東郷をしのぐといわれた開康の動態
視力は、それが「くまさん」がプリントされたパンティーであることを、一瞬
のうちに見取っていた。
「あーるー日、森のなーか、くまさんと・・・・ん?待てよ・・・」
i486DX2/66MHzをしのぐといわれた開康の脳は、一瞬のうちにデー
タベースを検索し、それが智恵美の使用しているものと同種類のものであると
の結論を得た。匂いを加えてAND検索すれば・・・と振り返ってみると、男
は30前くらいの年齢であろうか、気のせいか、歩く後姿の腰がふらついてい
るように思えた。左手にはNECとロゴが入ったアタッシュケースを持ってい
る。
「NEC・・・日本園芸カレッジ・・・」
クレヨンしんちゃんをしのぐといわれた非常識のせいで、開康は、一瞬のうち
にまちがった結論を出していた。
  本所松井町の店の奥には爛熟した倦怠感が(なーんじゃそれ)濃厚にたちこ
めていた。智恵美はしどけなく寝乱れた姿であった。バター犬をしのぐといわ
れた開康の鋭敏な嗅覚は、部屋にただよう雄の臭いを、一瞬のうちにはっきり
とらえた。
「クンクン、どーこかな・・・クンクン」
智恵美の下半身にたどりついて、その裾を持ち上げてみると、なにも身につけ
ていない。「まっくろけのけーっと・・・クンクン」
本来の探索を忘れて、すでに磁針は90度の方角(ナサケネー!)である。か
なしい男の性(さが)であった。智恵美が夢うつつで身じろぎした。
「よ・・・し・・・き・・・」

                                        *

【よ・・・し・・・き・・・】?  
アイコムのクロスワードパズルは毎月欠かさず応募するという開康は、一瞬の
中に答を出した。彼のコンニャクを超えると言われる柔軟な頭脳は時として一
般人の理解を超越した答を弾き出すのである。「【□ごとに□ばいて□んたま
】かぁ!」「ウーム・・やはり高村に洗脳されている様だ!」「まっ、いいかー、
最近マンネリ化してきたし、取りあえずこの"ふくらみ"を何とかせねば!」譫
言(うわごと)を繰り返す智恵美のボタンが、はずされていく。肩から胸があ
らわにされ、今ではもう誰も知らないピンク・レディーがプリントされている
ブラが開康のスケベ心に油を注いだ。日本の錠前師の中でも5本の指に入ると
言われている開康は、その繊細な指の動きで、スルスルと智恵美を一糸まとわ
ぬ素PONPONにしていった。「高村なんかに負けてたまるか!」その意気込みは
築後150年を超えると言われる千歳屋の看板をも揺るがした。 しかし、天
才錠前師とうたわれた開康は、あまりにもフィンガー テクニックに頼りすぎ
ていたために、智恵美はわき腹をボリボリと掻いて深い眠りに落ちて行ったの
である。「アーン、アーン、ちえみターン!」
彼の悲痛な叫びは夕食時の松井町に響き渡った。「あっ!そーか、暗いから寝
ちゃうのね」決して自分を責める事の無い勇気ある男である。「明かりをつけ
ましょ、ぼんぼりにー、とくりゃー」5燭の電球に浮かび上がる智恵美。開康
の前は、90゜のままである(限界)その時、星明かりの公園でイチャツク男
女を観賞していると言われる彼の目は、智恵美の下腹部に残された小さな文字
を捉えた。「ハロー C&C」

                                        *

  北田の細い眼が一層細くなった。
「C&C・・CENTURY CITIES・・?」どこまでも脳天気な奴であった。
「ということは・・この裏は・・」
 北田は、智恵美のウェストと太股に手をかけた。
『女のウェストは60cm以上にはならないのよ!』日頃、智恵美が豪語して
いるだけあって実に堂々としたウェストであった。大理石の彫刻のような太股
が、少女のように淡い茂みの根元からすらりと伸び、ほの暗い電球の光に浮か
び上がっている。
しっとりと吸い着くような感触が北田の手に伝わった。智恵美の興奮がまだ残っ
ている証左であった。
  北田は智恵美を裏返した。
真っ白な二つの丘がおいでおいでと手招きをするように現れた。
北田の指は吸い込まれるように双丘の谷間に滑り込んだ。哀しい条件反射であっ
た。
「うぅーん」智恵美の口からかすかにあえぎが漏れた。
まっすぐに閉じられていた智恵美の太股にわずかな角度がついた。これもまた、
智恵美の愛しい条件反射であった。北田の指がさらに進んだ。
智恵美の真っ白な太股が作り出す角度は次第に大きくなり90度に近づいていっ
た。
その太股の奥の方に朱い色がちらちらとしている。
北田は眼を凝らした。

「やっぱり・・」
智恵美の左右の太股にくっきりと朱色で書かれた文字が浮かんだ。
  JCG  200 !!

                                        *

開康の頭脳は、太股の奥の方の問題に、その能力の99.97%を消費してい
たため、ほとんどクロック0.5Hzの2ビットCPUと化していた。
「ひとーつ、ふた−つ、みっちゅでしょ・・・う−んと・・・あとはたくさん。」

ま、このような状態であるからして、そのJCG200というのが、いつぞや
湯島で渡されたJCC300と同種のものであるとは、思いもよらなかった。
磁針はすでに90度に達していた(やっぱり限界なのね)。
「ちょーっと、まちゅんでしゅよー・・・いーま行きまちゅか−らね。」
いまや99.993%を本能に奪われた開康の脳は、ほとんどナメクジなみで
あった。
「ちっ・・・ちえみタ−ン!!」
光速をこえる速さで、すでに果てていた。その一瞬、開康の脳に赤い光が充満
したのは、これが噂に聞く光のドップラ−効果による、赤色偏位というもので
あろうか。
智恵美はなにも気付いていなかった。いつもの悲しい習慣であった。
「ふうっ・・・あーえがった。」
と、なぜかトーホグ弁になりつつ、開康が異次元から戻ってきたとき、すでに
彼の鋭敏な頭脳は、ほぼ正常に戻っていた。すなわち、本能にわずか99.2
%を奪われるのみの状態である。いまや、彼の頭脳はオオサンショウウオなみ
であった。
「ふーむ、JCGとJCCか・・・ふ−む・・・300と2・・・2・・」
そのまま眠りこんでしまった。
開康は眠っている・・・(ドラクエか!おまえは)

                                        *

「リンリン、ランラン、リュウーエン、リュウエン行って、幸せたべーよ。」
キッチンから聞こえてくる、智恵美のやけにご機嫌な歌声につられて、朝ゾン
ビーがフラダンスを踊りながら寝室から出てきた。一瞬で事足りる彼にはリズ
ム感など有るか無き物である。
「あなた、外務省から手紙がきてるわヨ!」
「ちえみターン! 昨日の夜はどうだった?」
「ずいぶん寒くなったわね。」
「そうじゃなくてー・・・アレの事!」
「ああっ、ごめんなさいネ。今日は夕飯作るから。」
「ちがうヨー、アレだってばー・・・」
「るせーなコノヤロー!朝からアレだのコレだの!」力関係が見える。
外務省からの手紙は12月16日に開康が召喚されたという、召喚状であった。

(わずか1行で、16日になってしまうのは、無理があると思われるが・・・・)

『外務省研修所』入り口にある守衛室で部屋を尋ねる為、召喚状を差し出す。
守衛は開康の身体を足元まで見おろし、何も言わずに封筒を雑に受け取った。
内線電話で何やら話をしているようだ。すると突然、吸いかけのタバコをもみ
消し、背筋が伸び話し方が変わった。返事をする度に電話に頭を下げだした。
受話器をそっと置き、振り返るその顔には、先ほどのふてぶてしさは無かった。
「私がお部屋までご案内いたします。」 
長い廊下の一番奥にある扉の前で立ち止まり、「こちらです。」
守衛は扉をノックし、ノブを回した・・・・・
時は1990年12月16日。湾岸戦争開戦1カ月前であった!

                                        *

 ガチャ ガチャ・・ 
その分厚い鉄の扉は守衛の開扉の動作にもかかわらず、なんの反応も示さなかっ
た。
『ようーこそー 北田君』狭い廊下に、聞き覚えのある疑似音声が響いた。
北田が良く作るIC音声合成装置の声であった。周波数は異様に低く抑えられ
ている。
『君の最初の仕事はー そのドアを開けることである。』
IC音声がその無機質な抑揚の無い声で続けた。
「何言ってやがんだ。 俺が何でこんなことをしなけりゃならないってんだ。
ばかばかしい。帰らせてもらう。」
北田は無礼な招待者のやりように声を荒げ、くるりと体を回した。
  北田が振り向くと同時だった。天井から音もなく分厚い鉄板が降りてきて北
田の行く手を塞ごうとしていた。
『ズゥーーン』長い廊下が消失した。いつのまにか衛視の姿は消えていた。北
田は狭い空間にあっという間に閉じこめられていた。
 真の闇である。北田の額に汗が浮かんだ。
北田は閉所恐怖症であった。子供の頃にいたづらを親に叱られ、トイレに閉じ
こめられて2時間も出してもらえなかった時からの悲しい性であった。
「ウワッ!!」  北田はいきなりあふれたまぶしい光の中に立っていた。
空間にナトリウム灯のオレンジ色の光が充満していた。疑似音声がまた響いた。

『そのドアにはー通常の鍵は役に立たないぃー。また、君の得意なオイル作戦
は当然のこと、なんの反応も示さないであろーう』
『なお、このナトリウム灯は20分後には自動的に消滅する。それでは健闘を
祈る』
北田に残された時間はごく僅かなようであった。
ドアに近づき、北田はそのドアを調べ始めた。
ドアにはノブがただひとつ付いているだけである。鍵穴らしきものは見当たら
ない。
僅かにノブの30Cmほど上に小さなピンホールが開いている。
北田は眼を近づけ、のぞき込んだ。
柔らかそうな光が部屋の中にあふれていた。毛足の長そうな真紅の絨毯が床一
面に敷き詰められている。真っ白な物体がその絨毯の上にゆったりと横たわっ
ている。
「尚美!」それは尚美の白い裸体だった。
尚美の裸身をいたぶるように浅黒い物体がふたつ絡み付いている。
「高村!! それに武田も!」北田は叫んだ。北田の声は部厚い鉄板にむなし
くはねかえされ、狭い空間にこだました。

                                        *

あまり他人には知られていないが、実は北田は工具オタクだった(誰でも知っ
てるって)。こういう人間の常として「万が一の為に」いつも最低限の道具を
持ち歩いていないと不安になるのだ。しかも、他人には知られていないが、実
は北田は機械を小さくすることに異常な執念を持っていた(知ってるって)。
こういう状況こそ、実は彼が頭のなかで想定した「万が一」に一番近かった。
その興奮のため、閉所恐怖を一応無視することに成功した。まず、開康は左の
内ポケットから聴診器を出した。それをピンホールのそばに当てて、右手の中
指で回りを打診して、音を聴いた。室内のあえぎ声のほうが大きかったが、彼
の敏感な聴覚は、ほぼロックの概形と、メカニズムの概要をとらえていた。た
だし、磁針は120度にふくらんでいた(そればっかしね)。次に、右の内ポ
ケットから煙草大のDTMFエンコーダーを出すと、それに左の胸ポケットか
ら出したポケコンをつないで、4ケタの組み合わせをシミュレートした。次に
右の脇ポケットから出した、自作の電磁ロックシミュレーターを、さっきのポ
ケコンにつないで、16桁131072通りの組み合わせが終わるのを辛抱強
く待った。今度は、左の脇ポケットから、鍵屋の必需品であるピックを出した
が、これは一応試してみるまでもなく無駄であることはわかっていた。
「チョキチョキ・・・ふむふむ・・・チョッキン・・・」
開康の灰色の脳細胞は(おまえはポワロか!)は、オレンジ色の照明のなかで、
可能性を検証し、一つの結論に達した。
「うーむ、深い!」
開康は普通にドアノブを回して入った。まだ、15分を費やしただけであった。


                                        *

開康の技量は既に調査済みであった。ドアのノブには脈拍測定装置が、ピンホー
ルには網膜判別装置が取り付けられていて、彼の弱点である、閉所恐怖症とス
ケベ心に対する抑制力のテストであったのだ。開康をテストに合格させた要因
は、他ならぬ今朝の『おつとめ』と数カ月前の『トイレ事件』である事は、1,
48メンバーのみがぞ知るものである。部屋に入った開康の前には、スクリー
ンとビデオプロジェクターが先ほどの行為を映し出しており、ソファーには、
武田と高村が座っていた。
開康が呆気にとられていると、スクリーンの後ろから初老の男が姿を見せた。
「失礼をお許し戴きたい。私は今回のプロジェクトを担当する甲賀といいます。」

その英国紳士を思わせる対応と風貌は、開康の怒りと磁針を一瞬のうちに静め
させた。
「話を進める前に、北田さんに改めて紹介しておきましょう。フランス軍第一
特殊部隊
大尉の武田君、今回の作戦指揮を担当してもらいます。陸上自衛隊からレンジ
ャー特殊工作班一慰の高村君、現地であなたのサポートを担当します。」
二人は、帽子を小脇に抱え軍隊式の敬礼で挨拶をした。
「高村君に北田さんの調査を依頼したのですが、どうやら三人は趣味の方でも
旨く行きそうらしいが・・・? まっ、会議室で話を聞いて戴きたいと思いま
す。」
部屋の奥のにある扉を開けると、窓も無い部屋に大型のテーブルを囲む様に椅
子がセットされ、テーブルの上にはヘッド・セットが置かれている。
「北田さん、そのヘッドセットをかけていただけますか?」
すでに、他の二人はマイクを口元に調整している。開康が装着したのを確かめ
ると、初老の紳士はCDプレイヤーのスイッチを入れ、ボリュウムを上げた。
ヘッドホンから、彼の声が聞こえてきた。
「それでは、国有資産奪回作戦の説明を始めます。すでに武田・高村両氏には
概要を説明済みですが、これから話す内容は北田さんの同意が得られない場合
においても、作戦終了まで内密にして戴きたい。いいですね! すでにご存知
のとうり、中東に於ける某国の侵攻により、我国と西側友好国の国有及び民間
資産が回収不能の状態に陥り、この後展開される国連軍の作戦に先だって、そ
の回収を君達にお願いしたいのです・・・・」
初老の紳士は、歳を感じさせない声と眼差しで開康に説明を続けた。
「如何ですか、北田さん?」
「わけも分からないのに呼びだちゃれて、とちゅじぇん『如何ですか』と言わ
れても困ります。考えさせて下さい。」
「時間が無いのです、北田さん。あなたしかいないのです。」

                                        *

「一体、その資産とは何なんですか。」
北田は、訝しそうな話を聞くときの癖である舌なめずりをしながら、甲賀と名
乗る初老の紳士に尋ねた。
 「侵攻を受けた国というのは分かりますが、あんなちっぽけな国に一体何が
あるというのですか。」
「その内容は今は明らかにできません。」
「ただ今ここで言えるのは、それが日本及び西側同盟国にとってなくてはなら
ないものだということです。いわば、『生命の種』とでも言うべきものです。」

「そして、それは、国連軍の主体になるであろうアメリカ軍に渡すことだけは
絶対に避けねばならないのです。」

「私から、事情を説明しよう。」
フランス軍大尉と紹介された武田の声がヘッドセットから聞こえてきた。
「話は、34年前の1956年10月に遡る」
遠くを懐かしむように北田が話し始めた。
「当時、エジプトではナセルが実権を握っていた。スエズ運河国有化を宣言し
たナセルに反発したイギリス、フランスの両国はイスラエルをそそのかしてシ
ナイ半島を攻撃させるとともに、自らはカイロを爆撃するという行動にでた。
いわゆる第二次中東戦争の始まりだった。」
「第二次大戦、朝鮮戦争を乗り切り、巨大化したアメリカ軍産共同体は、この
攻撃に反発、すぐさま国連総会を開かせ、停戦決議を採択させたのだ。」
「このため、イスラエル、英、仏の3国は撤兵を余儀なくされた。」
「当時、私はフランス外人部隊に参加していた父と共にカイロにいた。・・そ
して、将にその最初のカイロへの爆撃が行われた時、一人の混血の男が、そこ
カイロで生まれたのだ。・・・そこにいる、高村氏だ。」

                                        *

「高村氏の母上は、英国系デパート"White Tree"のネクタイ売り場に勤めてい
た。なぜ彼女がそこにいたのかは、話が長くなるので省略しよう。当時、ナセ
ルは親ソ路線を歩んでいたわけだが、・・・そう、例のアスワンダムも、ソ連
の力でできたようなもんだからね。ソ連からの大量の技術者がエジプトにいた
ことは、君にもわかるだろう?」
「ネクタイ売り場の彼女が、毎日売り場に姿を見せる、東洋系の顔に気付くま
で、そんなに長い時間はかからなかった。セルゲイ・アルデニエフだった。彼
はバイカル湖に近い村で生まれたが、利発だったので、イルクーツクで高等教
育を受けた。」
「誇り高いツングースの末裔の彼は(実際、族長の家系だったのだ)鷲の眼と
狼の鼻を持っていた。生まれながらの戦士であった彼を、まだ発足したばかり
のKGBが巧みに徴用した。セルゲイは、あらゆる種類の武器を、まるでスプー
ンを使うように、最初から易々と扱ってみせた。彼の鷹の眼は、500ヤード
先のコインをスコープなしで、いとも簡単に射ち抜いたとも伝えられているが・・・。
」
 黙っていた、甲賀という紳士が武田をさえぎるように、手を上げた。
「いやいや、それは伝説なんかじゃないぞ。・・・そうだな・・・もうそんな
になるか・・いや、これは失礼。すっかり話が横道にそれたようですな。そう
いえば、北田さんにはまだ私のことを申し上げませんでしたな。ちょうど話が
出たので、自分で紹介させてもらいましょう。私は、今の話のセルゲイ・アル
デニエフとは、お互いにほくろの数まで知っている間柄だったのです。」
「というと、あの・・・ホ・・・ホモ達かなにかで・・・?」
「まあ似たようなもんですが、同業者だったのですよ。」
「というと、・・・ダムの・・・」(このおっさんボケよるなー)
「いやいや、これはまいりましたな。一応敵味方でも、お互いに敬意をいだい
てましてね。
それで・・・当時カイロの大使館付だった私にセルゲイから接触があって・・・
いやあの時は笑いましたな。なにかと思えば、あの10マイル四方に香水の匂
いが絶えなかったという『バイカルの狼』が日本女性に一目惚れという話で・・・。」


                                        *

「お、これは大変失礼。高村君の前で、口がすべり過ぎたようです。」
「いいんです、甲賀さん。その話は母から何度も聞かされましたから。」
「戦闘が激しくなり、母と私が日本へ引き上げた後も、甲賀さん一人で行方不
明の父を捜索して戴いた事も聞いています。今でも母は、ナイル川の船上で撮っ
た3人一緒の写真を鏡台の上に置いています。」
「そうですか・・・・。セイゲルはKGBの卑劣なやりかたに反抗していたと
聞いています・・・・。さて本題に移る前に今回の作戦に参加するもう一人の
人物を紹介しましょうかね。」彼は、ヘッドセットを外しインターコムに向か
い何か話をしていた。程なく開康のモニターにドアの閉まる音が微かに届き、
誰かが近づく気配を感じた。開康の横を通り過ぎる瞬間、薔薇の香りとヒール
の音が聞こえた。その後ろ姿は、ニットのワンピースがボディーラインを語り、
短すぎる丈の下から縫い目のあるストッキングに包まれた脚が切れる様な足首
に続き、栗色の髪に見えかくれする細い肩が開康の磁針を刺激していた。
「栂田尚美君です。」
「北田さん、ご無沙汰しています。」
「確か、外資系の会社に・・・・?」
「ハイ。エジプト航空に就職しましたが、カイロ本店勤務に移ってから、向こ
うで甲賀さんにお会いして、一度は捨てようとした人生です。思いきり冒険を
してみたいと・・・」「ゴホン・・・、実は北田さん、初めにあなたに白羽の
矢を立てたのは彼女なのです。」「2年以上前になろうか・・・」燈台の灯に
浮かび上がる尚美の裸体を思い浮かべ、開康は呟いた「あのころは・・・、あ
のころはもうちょっとシリアスだったよなー!」
尚美が席につき、武田が作戦書類を配布し始めた時、逃れられない運命を悟っ
た開康は、わざと書類を床に落とし、机のしたから尚美を懐かしんだ。
「19日の午後カイロに飛んで、現地エージェントに合流します。そこから陸
路現地入りして行動を開始します。内容は機内で詳しくお話します。」
「それでは諸君、三日後に成田で。」

研修所を後にした開康を追うように、ヒールの音が近づいた・・・。

                                        *

 「YA・SU・Oさん!」 尚美が開康の耳元で囁いた。
それは、北田の車のリアシートに書かれているのを尚美が見つけて、北田の名
前と思いこんだものだった。
「いいえ、開康さんでしたわね。北田開康さん。・・悲しい町での鱸のパイ包
み焼きはおいしかったわ。」
「どういたしまして、あなたの『オイル漬けのピクルス』も相当なもんでした
よ。」
  (単行本『風の物語』初秋編を参照、お読みでない方はPGAにご依頼くだ
さい。)

 北田が車のドアを開けようとすると、尚美は北田を押し退け、その運転席に
さも当然のように滑り込んだ。
「私は家へ帰らなければいけないんですよ、尚美さん。なにせ、あと2日しか、
残された時間はないようなんでね。」
北田は、助手席に回り込みながら、口元に、何かを期待したような笑いを浮か
べながら、それでも、愛妻家であるかのような言葉を言ってみた。
「正しく言えば、『2日もある』でしょ。あなたは、もう家庭に帰る必要はな
いのよ。」尚美は、まだ何かキザな言葉を探しながら口をモグモグさせている
北田から車のキーを奪うと、車をスタートさせた。

  麻布から虎ノ門、桜田門を左折し、三宅坂を抜けると、外堀通りに入った。
まっすぐ行くと、四谷から市ヶ谷、陸上自衛隊駐屯地への道である。
尚美は、高速道路の高架にかかると、急に思い出したようにコクリと一つうな
づき、砂防会館の角を入った。「そうよ、まだ、時間はたっぷりあるのよ。」
 尚美は、通いなれた道を通るように、なめらかにハンドルを切った。
古めかしい洋風建築があらわれ、すぐに北田の眼に、高層ビルが飛び込んでき
た。
  「尚美さん。 ここは、赤坂・・プリ・・」

                                        *

「そう。この辺から麹町はあなたのテリトリーでしょ?」
「よく知ってるね。ここから霞ヶ関にかけては武田さんの・・・」
「彼のことはいいの。今は私だけを見て。」
「そうだな。でも腹が減ったね。こんど何時食べられるかわからないんだから、
まずはうまいものを食べよう。四川料理でも・・・」
 赤坂プリンスの旧館に背を向けて、平河町の四川飯店に入った。張祐紅葡萄
酒の甘い口当たりで食欲を刺激して、軽く五色拌盤をつまみ、気化鉛紙包蒸魚
で軽く整え、魚香茄子でほのぼのとして、酸辣湯で再び食欲を刺激、大蒜猪蹄
で満腹し、清蒸芙蓉蛋で追討ちをかけて、特別に坦々麺をたのんでとどめをさ
した。
 羽化登仙の世界から尚美が現世に帰って来たとき、すでに開康は通常の状態
に戻っていた。すなわち、本能にわずか95%を消費している状態である(こ
ればっか)。そばを通りかかったウエイトレスを呼び止めるふりをしながら、
巧みにヒップに触れた。
「君・・・デザートに豆沙水晶包を・・・もらおうか。」
ウエイトレスはトカゲ目で去った。(さわんじゃねえ!デブ!)
「さて、仕事の話をしよう。」
「今はもう仕事しか、あなたとの間にはないのね。」
「思ひ出が・・・あるじゃないか・・・ああ、君、君」
と、通りかかったウエイトレスを呼び止めるふりをしながら、ヒップをさわろ
うとしてかわされた。こんどは開康が爬虫類の目になる番であった。
「なんでしょう?」
「せっかくだから、タピオカも・・・もらおうか。」
尚美は吉本興業風にコケていた。

                                        *

「ごらんなさい、尚美さん。綺麗な夕日です。」
「本当ね、1992年ももうすぐ終わりね。」
  赤坂プリンスの二人の部屋に、過ぎようとしている1992年を惜しむかの
ように、
鮮やかな夕日が差し込み、北田と尚美の顔を染め上げていた。
「いろいろな事があったわね、北田さん」
「少々めまぐるし過ぎましたね。わたしの灰色の脳細胞は、もう少しで真っ赤
になりそうでしたよ。」
「あら、いまNHKでポワロをやってるからといって、・・」
1992年最後の太陽が丹沢に落ちた。パアッーと真っ赤な残照が二人を包ん
だ

「ポワロ北田くん、君にはまだまだ活躍してもらわなければならない」
いつのまにか高村が二人のそばに立っていた。
「しかし、まあしばらく充電するというのもいいかも知れないな」
武田が尚美の側でつぶやくようにささやいた。

  四人の影が絨毯にのびていった。

ラアーララァ ラアーララァ ラアーララァララー ・・・・・・

 赤坂プリンスの部屋にドヴォルザークの交響曲第9番「新世界から」第2楽
章が静かながれ、そしてたちまちの内に1993年の激動を予感させるかのよ
うに激しく鳴り響いた・・・・
                ・・・・ 完