私は乗り物が好きだ!(その1)

  私は背が低い。 164cmという身長は、昭和三十年代では普通でも、平成と
なった現在では平均より10cm近く低い。しかし、これはどうにもならない事で
もあるし、このことを真剣に悩んだこともない。それよりも、もっと問題なの
は足が短いということである。背が低くても、プロポーションが良いとそれな
りに格好がよいからだ。小学校四年の時、既に友人から、その事を言われてい
たし、中学では、そのころの私のような体型の人に例外なくつけられた「座高
一」というありがたくない名前も頂戴した。大学での友人は「おまえはほんと
に足が短いなあ」としみじみ言ったし、勤務医のときの同僚で私が「骨猿」と
呼んでいた友人は私のことを「タン!」と呼んだ。むろん短足のタンである。
現在でも、ズボンを買って裾をたくさん切り取る度に、女房は「ほんーーっと
にみじかいのねー」と谷岡ヤスジ風なイヤミを言うのだ。
  これは屁理屈をこねようと思って言うわけではあるが、生物の体型は風土
や生活に対する適応の歴史が形になったものである。それはたしかに、ここ二、
三十年でスタイルはよくなったかもしれないけれども、私の体型には百五十万
年に及ぶ人類の進化が結集されているのだ。このアジアの島国で農耕する民族
はこの体型でないといかんのだ。そこんとこ、わーっとんのか、えっ?。責任
者を呼べ、バーロー。と言う凶悪な気持ちになってしまうのは私だけだろうか。

  定岡正二という元ジャイアンツのピッチャーがいるが、甘いマスクと抜群
のプロポーションで女性にはモテモテであった。ジーンズの裾を切らずにはく
ことができる、という彼の股下は90cmだそうである。身長は 184cmとのことだ
から、私と比べるとちょうど20cmだけ背が高いことになる。それでは私の股下
は、というとこれが70cmで、これまた20cmだけ短い。これがなにを表している
かと言うと、彼と私の上半身は大体同じ長さだということである。自分で20cm
のシークレットブーツ(そんなもん、シークレットにならん)を履いて生活す
ることを考えると、ちょっと不安定で怖い感じがして、神様に私の足を20cm伸
ばしてやると言われても、迷う気持になる。しかし、結局は伸ばしてもらうだ
ろう。一度ぐらいは女性から憧れの目で見られたいからだ。もっとも、解決す
るべき問題は、足だけではないけれども。

私は乗り物が好きだ!(その2)

 そういう訳で、かどうかはわからないが、私は歩くことが好きでない。走る
ことも好きでない。老化を防ぐには一日4km歩くとよい、などという記事を読
むと、ああ、ボケ老人で結構じゃ。わしのことはほっといてくれ。という気持
ちになる。私が東京に出てきて最初に感じたのは、東京というところでは、結
構たくさん歩かなければならない、ということだった。つまり、これが田舎だ
と、交通機関が発達していないし、歩くには遠いので、必然的に、なんらかの
自分の乗り物に乗ることになる。東京では、どこにいくにも電車やバスがある
から、それを利用することになるのだ。地図などで見ると、ちょっと不必要な
ほどの近い距離に駅がある。しかし、これを実際に利用する場合はどうだろう
か。自宅から駅までを歩き、駅の入り口からプラットフォームまでの通路や階
段を歩き、乗換え駅で再び長い通路や階段を歩き、目的の駅の通路や階段を歩
いてやっと駅の出口に出ても、さらにそこから目的地まで歩かなければならな
い。最初から全部徒歩で目的地まで行ったほうが早いような気がするケースさ
えある。東京が全国一の長寿自治体であることに、何か関係があるかもしれな
い。
  とにかく、歩くのを好きでないから、当然乗り物が好きだ。ありとあらゆ
る乗り物が好きだと言ってもよい。しかし、ここでいう「乗り物」とは、自分
で運転できる乗り物をさしている。むろん、交通機関としての乗り物も嫌いで
はない。
  生まれてしばらくたった幼児にとっては、すべてのものが新鮮な驚きに満
ちている。排泄物すら例外ではない(と思う)。やがて、歩けるようになると、
見える範囲、手の届く範囲が飛躍的に拡がり、そのすべてが興味の対象になる。
私の一番古い記憶は、三歳の時に父の下駄を履いて転び、石段の角で額を傷付
けた時のことである。三針縫ったというから結構重傷だったのだろうが、痛かっ
た記憶はない。視野が赤いもので一杯になったことを漠然と覚えているだけだ。


私は乗り物が好きだ!(その3)

 やがて三輪車を経て、自転車に初めて乗ることができるようになった日のこ
とは、今でもはっきり覚えている。前に書いた福山城主、水野勝成の家族の墓
所が私の家のすぐ近くにあった。墓といってもそこは大名家のものだから、結
構な広さがあって、子供達がかくれんぼをしたり蝉をとったりするのに格好の
場所になっていた。ここで、すぐ上の姉に子供用自転車の荷台を支えてもらっ
て練習をした。たしか、五歳の時だと思う。最初は転んだが、草むらなので痛
くなかった。ハンドルを動かしてバランスを取ることを教えてもらったら、あっ
けないほど簡単に乗れるようになった。まず、体や顔に風を受ける快感を知り、
毎日乗っているうちに、いままで点として理解していた場所がつながって、頭
の中に地図ができた。これによって、行動できる範囲は無限に拡がったように
思えた。行こうと思えば日本の端までも行けるのだ。
  大人用自転車の三角のり、両手放し、後ろ向き、足乗せと、自転車に関し
ては、当時の子供はだれでも立派な曲芸師だった。また、場所もいくらでもあっ
た。私もまた、この分野に関してはエキスパートであった。上の姉から三代目
のおさがりで20インチの赤錆だらけの自転車は私の親友だった。かなりの遠く
までこれででかけていった。いま考えると不思議なのだが、両親に「あぶない
からやめなさい」と言われた記憶がない。私の家は、山陽本線の踏切に面して
いたし、国道2号線も、国道182号線も家からいくらも行かないところにあっ
たし、当時は今のように交通信号だらけではなかった。いくら交通量が少なかっ
たとはいえ、けっして安全とはいえない環境だった。これはたしかではないの
だけれども、そのころは「けがをするのは自分が悪い」というコンセンサスが、
大人にも子供にもあったように思う。校庭で転んで骨折したのは学校の管理不
足である、というようなたわけたことを言って、訴訟を起こす人間はまだいな
かったのだろう。線路の中も川も海も、すべての場所は子供に、また大人にも
開かれていた。東京の中で、水際に下りて遊べる場所がどれだけあるだろうか。
都が整備した公園ではない。いくら水が汚れていようと、生物が棲み、その水
が外界につながっている水辺のことなのだ。公園の池に流した木の葉の舟がいっ
たいどこに行けるだろうか。どぶ川でも、それが流れて行けば、子供の頭の中
で舟は太平洋に出て行くのに。

私は乗り物が好きだ!(その4)

 中学生になって、私は沖野上の広島大学まで自転車通学することになった。
ぎりぎりで、歩かなくてはならないゾーンを外れていたので嬉しかった。歩く
のは嫌いなのだ。しばらくは、東京に行った姉の自転車を使っていたけれど、
やはり自分の自転車がほしくなって、懸命にねだって、ブリジストンの、スカ
イウエイという外装五段変速のスポーツサイクルを買ってもらった。知らない
人にはわからないだろうが、当時は、内装の三段変速というものが結構はやっ
ていて、これは後輪のハブの中に内蔵した変速機を右手のグリップを回して切
り替える仕掛になっていた。これは簡単でよかったのだけれど、ワイヤーのた
るみの為に低速ギヤに入らなくなることと、故障が多いのが欠点であった。こ
れに比べると、ドロップハンドルのついた、外装変速のスポーツサイクルは、
その外見からして本格的で「シブ」かった。しかし、ドロップハンドルには大
人の抵抗が強かったので、普通のハンドルで(ノースロードという名前なのだ
よ。知ってた?)妥協したのだった。これから私の自転車狂時代が始まったの
だった。
  現在でもそうなのだけれど、私は、なにか機械を手に入れたとき、それを
分解してみずにはおけない。どういう仕掛でそのような機能をもつのかをどう
しても知りたいからだ。多分にもれず父親の時計は何度も犠牲になった。柱時
計も魔手から逃れられなかった。扇風機、ラジオ、電気ポット、等々、動くも
のすべての屍衣累累というありさまであった。父親は「おまえはなんでもこわ
すなあ」と嘆息したけれど、さわるなとは言わなかった。先程の遊び場につい
ても言えるのだが、こういう所が、昔の人は実に偉いと思う。自分が子供を持っ
てみるとわかるが、自分の大切な物をこわされたら、ビンタの一つも飛ばすの
が普通と言うものだからだ。現在の私は、なんでも修理する職人といわれてい
るが、修理できるようになるには、何度もこわすことを繰り返して、なんとな
く機械の「ツボ」がわかることが必要なのだ。父親のおかげである。中学生の
頃はすでに「壊し屋」から「修理屋」に変身しかけていた。そこに自分の自転
車を手に入れたのだから、分解するなというほうが無理であった。

私は乗り物が好きだ!(その5)

 中学三年のときに松山政裕という友達が転校してきた。彼に大阪の「トモダ」
という店の(この店は今でもある)自転車パーツの通信販売を教えてもらった
ことと、技術の時間(六年間で私が「5」を貰った唯一の学科であった)に自
転車の構造を習ったことで、一気に自転車狂の病状が悪化した。最初は分解組
み立てや、パンクの修理がせいぜいだったものが、しだいに改造に熱中するよ
うになった。小遣いはたかが知れているので、たいしたパーツは買えなかった
けれども、高校生の頃に乗っていたものは、赤い布テープを巻いたランドナー
バーを5cmのステムに付け、ダイヤワイマンのセンタープルブレーキ、前に40
枚のギヤを増設した10段変速、自作のジーンズのフロントバッグ、テント地の
パニヤバッグ付きという、原形をとどめない物になっていた。この病気が悪化
してくると共通の症状が見られるようになる。メカニズムを強化して、不要な
飾りを外すようになってくるのだ。こういう自転車を今でも街でみかけると、
「おっ、やっとるな」という暖かい気持ちになる。
  自転車を整備したら、それに乗って遠出したくなるのは当然である。幸い
に瀬戸内海の沿岸部は全域が国立公園に指定されているくらいだから、行く場
所には事欠かなかった。私の平均的な日曜日のサイクリングコースは、まず芦
田川ぞいに鞆まで行き、峠を越えて、阿伏兎の観音に出た後、山道を熊野まで
たどって、松永側に下りて、国道2号線を福山まで帰ってくるものであった。
だいたい行程40kmというところだろうか。こういうことを毎週やっていたのだ
から、体も丈夫だった。今同じ事をしたら、二日は寝込まなければならない。
できるかどうかすら怪しいものだ。今、神様からもらえるとしたら、長い足は
要らないから、十代の柔軟な筋肉をもらいたい。
  倉敷、尾道、岡山、府中、等々、今だったら「るるぶ」にでそうな、古い
街並み。国鉄のDISCOVER JAPANのキャンペーンが始まる前だったから、どこも
妙にこぎれいになる前に見ることができた。特に気に入ったのは倉敷で、阿知
神社の下をくぐるトンネルの周りが好きだった。無論、大原美術館では長い時
間を過ごした。西日の当たる棟方館の藺草の長椅子に座ったまま動けなくなっ
てしまったこともあった。土蔵を改造した建物の質感、わざと無骨に寄せ木し
た床、だれ一人通らないために(今、こんなことがあるのだろうか)重く沈ん
だ空気、壁から見下ろす観世音菩薩の板画、それに当たった格子の影。私は感
動に縛られていたのだ。「時よ止まれ。おまえは美しい。」であった。

私は乗り物が好きだ!(その6)

 前にも書いたように、私のいった学校は六年制であった。中学、高校という
ように呼び分けないで一年から六年というように学年を連続させていた。しか
し、四年の年には、つまり高校から、新しく「外部」から少数の生徒が入学し
てくることになっていた。もともと、倍率の高い学校に後から編入してくるの
だから、これらの生徒は恐ろしいほどの優等生であったし、考えも大人だった。
それにひきかえて「内部」の生徒は、元は優等生だったとはいえ、三年の間に、
すっかりのんびりしてしまった者も多かった。「内部」の生徒で私が一番親し
くしていたのは信森英俊であった。彼は小学生の頃から「スクリーン」誌を愛
読していたので、いっぱしの洋画マニアであった。この男に感化されて、モデ
ルガンを使って、スパイごっこやコンバットごっこをよくした。(しかし、中
学生のすることじゃないね。)その信森と同じ学校から来た、堤正晴という男
がいて、こちらともすぐに友達になった。彼の所にもモデルガンがあって、皆
で夜に紙雷管の音をさせて近所のひんしゅくを買っていた。彼の家は表をステー
キハウスに貸していて、そこにホンダのスーパーカブがあった。彼は、これを
夜に引っ張り出して、ちょくちょく乗って遊んでいた。信森や私がこれに加わ
るようになるのに、そんなに時間はかからなかった。
  まだ私が子供の頃、家にはラビットの125ccか250ccのスクーターがあって、
父は私を後ろに乗せてよくドライブ(?)に行った。どういう訳か、このスクー
ターはいつも調子が悪かった。セルなどというものはついていなかったので、
キックによってエンジンをかけようとするのだが、素直にかかったことは一度
もなかった。たいがい数十回の労働を要した。もともと体の弱かった父は、ケ
ッチンを食らったりして、あきらめてしまうことすらあった。やがていつの間
にかなくなってしまったけれど、私はスクーターの後ろに乗るのが好きだった。


私は乗り物が好きだ!(その7)

 そういう訳で、私は、スクーターを操るのは難しいと思っていたから、この
スーパーカブの安直さには驚いた。今でも思うのだが、このホンダのスーパー
カブは、歴史上、フォルクスワーゲンとも比肩しうる名車ではなかろうか。ま
ず、その軽量で無駄のないデザイン、次に抜群の操作性。乗り易く、疲れにく
い大口径のホイール。そしてなにより、故障知らずで、リッターあたり100km
近い燃費のエンジン。どれをとってもこのクラスのバイクに求められるすべて
をクリアーしている。最近になってゴキブリのように大量発生した、女子供向
けの原動機付きバイクをすべての面でしのいでいると思う。ただ、スーパーカ
ブがあまりに実用性が高かったために、実用車としてのイメージが定着してし
まったのは不幸だったかもしれない。つまり、カブは「ダサイ」のだ。しかし、
あのツートンカラーのスリムな車体だって決してデザイン的に劣ったものでは
ないし、あの、足を包み込むカウリングの実用性と耐久力は、いまの原動機付
きバイクからは決して与えられないものである。原チャリにのっている諸君、
一度スーパーカブに乗ってみたまえ。今まで、どんなに乗りにくいマシンに乗っ
ていたか、一分もしないうちにわかるから。
  またしても話がそれてしまった。私はバイクの操作性にも驚いたけれど、
なによりエンジンで駆動された乗り物を操る快感に魅了されてしまった。これ
こそ、行こうと思えば、日本の端にだって行けるのだ。自転車に乗れるように
なった時には、眼からウロコがとれた思いだったが、このときは、角膜から、
眼球まで取れた思いだった。このバイク遊びは、堤正晴が無免許運転中のとこ
ろを補導されて家庭裁判所のお世話になるまで続いた。

私は乗り物が好きだ!(その8)

 やがて「外部」から新しい人間が入ってきて、むろん皆私より数段優秀だっ
たが、またたくさんの友達ができた。この頃から、大学受験という現実が、今
まで遊び暮らしていた仲間にも、視野の遠くに、はっきりと見えるようになっ
ていた。私はといえば、あいかわらず時間を浪費していた。よく、「おちこぼ
れ」問題をどう解決するか、といった記事を新聞などでみかけるが、おちこぼ
れたことの無い人間に、当人の気持ちなどわかるものか、と思う。本人は、た
だ途方に暮れ続けているだけなのだ。よく、「どこがわからないか、言いなさ
い」などと質問するが、これは、ビルの場所がわからない人間に、そのビルの
内部の様子を尋ねるようなものだ。ビルの場所さえわかれば、あとは手探りで
も、なんとか目的地に着けるものだ。私は、同じ形のビルが無限に並ぶ街で、
ただ途方に暮れていた。仲間と遊ぶ時間だけが、充実した時間だった。
  四年生のころから親しくなった友達に、浅野一学という武士のような名前
の男がいた。彼も「内部」組だったが、それまで同じクラスになったことがな
かった。名前こそ武士のようだが、細面に黒ぶちの眼鏡をかけて、人の良さそ
うな柔和な眼をしていた。あだなこそ「バカトノ」だったが、理科系の学科に
関しては、私から見ると天才的に良くできた。理工物理部で、トランジスタや
真空管をいじっている彼は、全く別の人種であった。彼は笠岡から電車通学し
ていたが、家が笠岡からかなり離れた場所にあるので、バイクで駅まで通って
いるという話だった。16歳を過ぎたので、免許をとる者がぼつぼつ出始めてい
た。もともと気のいい彼に、バイクの運転を教えてくれるように頼むと、すぐ
に承諾してくれた。学校が終わってから、笠岡の駅のそばにおいてある、彼の
125ccの実用車で岡山県の山の中を走り回った。いまでもたぶんそうだろうが、
直接に公安委員会で受験した場合の合格率は20%を割るのではなかっただろう
か。学科はともかく、実技で一発合格するのは、神業に近かった。結局、どれ
だけたくさん無免許運転をしたかで合否が決まるのだから、矛盾した話ではあっ
た。

私は乗り物が好きだ!(その9)

 しかし、この時の無免許運転は本当に楽しかった。後ろに浅野を乗せていろ
いろ教わりながら、緑の濃い山道を走り回った時の、機械の手応えと、路面か
らの振動、それに新鮮な空気。今思い出しても、少し胸がドキドキするようだ。
この頃の、最良のおもいでの一つと言ってもいいと思う。何日も日が暮れるま
でトレーニングに励んで、自信満々で望んだ自動二輪車の試験は実技不合格だっ
た。
  結局、合格するまでに三回かかった。試験は毎週水曜日にあったから、ほ
とんど一ヶ月は水曜日の授業を休んだことになる。私の行っていた学校は、進
学校の割には、生徒に対する束縛が少なかった。むしろ、全く無かったと言っ
てもよいと思う。出欠も週番がつけることになっていたから、操作するのは簡
単だった。ともかく、親に無断で私は自動二輪車の免許を取った。最近では
「三ない運動」などというものがあると聞くが、はっきりいって愚の骨頂であ
る。水辺の遊び場が、そこで起きた事故による訴訟を回避する為に、なくなっ
ていったように、責任を転嫁する思想がここにもある。バイクの事故が多いの
は、高校生が免許を取るからだ。という理屈なのだろうが、それを禁止すれば、
交通法規に無知なままの人間が、無免許で乗るケースが増えるだけの話ではな
いか。いわば、事故の起きやすい状況を作り出している、とさえいえる。それ
に、私が体験したように、世界が輝いて見える瞬間は、大人になってからでは、
めったにやってこない。何度も言うように、禁止することによっては、決して
上達を得ることはできない。何度もバイクで転んだものだけが安全に運転する
術を知っているのだ。
  二週間待ってから、警察署で免許の交付を受け、家に帰って飽きずにそれ
を眺めていると、ちょうど仕事が一段落したのか、父がやって来たのでそれを
見せた。父親の言葉は短かった。
「乗るときは、鉄兜をかぶれよ。」

私は乗り物が好きだ!(その10)

 野上町の工業高校の裏手に「三好モータース」という掘立小屋のバイク屋が
あって、ここのオヤジは絵に画いたような「バイク屋」だった。あの頃で、も
う五十歳は過ぎていただろう。バイクが好きで、それだけをいじっていれば、
生活はどうでもいい、という雰囲気があふれていた。こういう所には、マニア
が集まりやすい。掘立小屋の前には、当時発売されたばかりのホンダ
CB750FourやカワサキW-1、それにみんな一度は乗ってみたいと思っていた、メ
グロZ7、ホンダCB450などがいつもさりげなく並んでいた。私も何度か通うう
ちに顔見知りになって、ここで中古の実用車を買うことにした。費用は、毎日
昼食を広島大学の学生食堂で食べるための食費を親から貰っていて、これを過
大申告すれば、その差額三か月分くらいで何とかなりそうだった。当時実用車
といえば、ホンダベンリイC92であった。いわゆる「氷屋のバイク」である。
これの大きい荷台に、麻袋で包んだ氷を黒いゴムベルトで縛り付けて配達し、
例の半円形の大きなノコギリで「シャッシャッ」と氷を切っている姿を思い出
すことのできる人は、私と同世代以上の人であろう。また、例の月光仮面が乗っ
ていたのも、このタイプだったと記憶している。
  C92は125cc二気筒の4ストロークエンジンを搭載していた。ミッションは
ロータリー4段であった。これのスポーツバージョンのCB92は、いまでもマニ
アの間で根強い人気を保っている。また、これを250ccにしたC72,CB72も人気
があった。前輪はプレス鋼のフォークにボトムリンク方式のサスペンションが
付いていた。その気になれば90km/hくらいは絞り出せた。セルも付いて、非
常に扱いやすいバイクだった。私はこれの中古を四千円で買った。今で二万円
というところか。なにしろロングセラーモデルなので安いポンコツがごろごろ
していた。どれくらいの距離を走った物かもさだかでないので、少し乗り込ん
でくるとエンジンがいかれてしまうこともよくあって、その度に、少しましな
ポンコツを買い直した。結局、C92は三台乗り潰した。

私は乗り物が好きだ!(最終回)

 先に書いた浅野一学もこれに乗っていて、五年生から六年生になる年の春休
みに、二人で四国一周旅行をした。全行程の八割が未舗装の山道、しかも三月
の寒い雨にずっと降られた。しかし、後にも先にも、私にとってこれほど充実
した旅行はなかった。大歩危、小歩危のエメラルドグリーンの流れ、高知県種
崎海岸の太平洋、足摺岬への山道、法華津峠で切れたチェーン。そのすべてが、
甘く懐かしい。帰り着いたら、早速C92は潰れてしまった。私にとって、一番
愛着のあるバイク、それがホンダベンリイC92である。
  大学に入るまでに、型式は不明だが、スズキの120cc、ヤマハの90cc、スー
パーカブの65cc、大学に入ってからヤマハの120ccに乗った。この頃から、次
第にバイクにも乗らなくなってしまった。ヘルメットの着用が義務付けられた
せいもあるし、他にすることが増えてきたせいもある。しかし、一番大きな理
由は、東京ではバイクに乗っても楽しくないことだった。
  長い時が過ぎた。どういう運命のいたずらか、私は東京に永住することに
なってしまった。中央区日本橋人形町に開業した診療所まで、バイクで通うこ
とにしたのは、やはりこのまま縁が切れてしまうのが淋しかったからだ。スズ
キの50cc、ヤマハSR125、カワサキZ250、ホンダGB250を経て現在はFREEWAYに
乗っている。数えてみると、13台めである。なるほど、昔のバイクに比べれば
そのパワーは段違いである。しかし、乗っていて心がときめかないのは、ただ
年を取ったせいだけなのだろうか。
  先年、福山に帰った際に、野上町のあたりを通ってみた。「三好モーター
ス」の掘立小屋があったあたりは、最初からそんなものなど存在していなかっ
たかのような、広い道路と整然とした家並になっていた。街は洗練されて、都
会になった。バイクも洗練されたデザインになった。友達も皆大人になった。
松山政裕はコンピューターの会社に勤めている。信森英俊はアメリカ人の嫁さ
んを貰って、三菱重工の船を世界に売り歩いている。堤正晴は三菱商事の敏腕
商社マンである。浅野一学はNTTで技術開発をしている。私は、といえば、短
いままの足と、子供っぽい心を持ったままの中年男にすぎない。
  これが、私の二輪車に関する物語である。