春のおもひで(序章)
唐突に昔話をいたします。
「大人になる」というのは、20歳とか、**を喪失した時とか、あるいはコー
ラを始めて飲んで「おっとなじゃん!」と言われた時とか、いろいろあるでしょ
うが、私が自分として大人になったと感じたのは、まず親に死なれた時、次に
給料を貰うようになった時、そして自分が親になった時、この3回です。とり
わけ、社会人になった頃のことは環境が変わったこともあって、はっきりとお
ぼえています。

 文京区小石川2丁目は、白山通りから1本入った通称「千川谷」のあたりで
す。丸ノ内線の後楽園駅から大塚方面に抜ける道が、その谷の跡です。共同印
刷の下請け工場が狭い道に軒を連ねていて、一日中油性インクの臭いと輪転機
の音がしています。伝通院のある丘と白山の丘にはさまれて、まさに谷底に位
置しているため、昼間でもほとんど太陽があたりません。「蟹工船」などと並
んで、プロレタリア文学の代表作とされる「太陽のない街」はここを舞台にし
ています。私がここに住んだ昭和49年から52年の頃もほとんどそのへんの
事情は変わっていませんでした。
 「こんにゃくえんま」の裏手の暗い通りから、さらに湿った路地を入ったと
ころにそのアパートはありました。風呂屋の裏に接して建てられている為に、
部屋の窓からは20cmほどの幅の空しか見えませんでした。晴れた真昼でも
あかりをつけないと本を読むことはできませんでした。当時で家賃が1万8千
円、トイレと台所つきですから場所を考えるとそんなに悪い物件ではありませ
んでした。夜も11時過ぎると、風呂屋の蒸気が部屋に流れ込んできて、桶を
片付ける「コーン、コーン」というエコーのかかった音が部屋一杯に響くので
した。
 私はここで、現在の職業に就く為の専門的な学習の大部分をおこないました。
御存知のように、技術的な習熟が結果に大きく影響する職業ですから、広島の
生家で使わなくなった機械を持込んでここで工作の訓練をしておりました。友
人の課題などを非常に頻繁に代作したりしたので「KOISHIKAWA L
ABORATORY」と自称していました。このとき作った小さい看板は今で
も仕事場に飾ってあります。

 小石川2丁目の穴蔵のようなアパートに住んでいた頃、私は専門の学問に燃
えていました。自然科学の一端に触れて、学問が本当は面白いのだということ
を知ったのです。一生を大学で過ごすのも悪くないと考え始めたりしていまし
た。大学まで徒歩10分、少し足を伸ばせば神保町というのは私には理想的な
環境でした。
 一方、入学と同時に始めた少林寺拳法も、ここに住んでいる頃は四国の本山
で昇段試験を受けたり、部の主将になったりで、これまた非常に燃えていまし
た。ほぼ毎日、昼食を抜いて(あるいは簡単に済ませて)昼休みの1時間に練
習をしていました。講義や実習が終わると市川の進学課程(予科のことです)
にかけつけて後輩の指導をし、それが終わった後、週に3回、夕方から新小岩
の道場(道院というのですが)に通っていました。こちらは師範(道院長とい
います)の興が乗れば深夜12時を過ぎてしまうことも度々ありました。
 私は子供の頃の自分が嫌いですが、この小石川時代の自分は好きですね。金
は全くありませんでしたが、前向きでした。今になって思うと、人生において
本当に馬鹿になってひとつのことに夢中になるという機会はそれほどありませ
ん。幸せなことに、この頃の私は学問と武道に夢中になっていたのです。
 絵にかいたような文武両道の生活とはいえ、21−23歳の頃です。人並み
以上の(あるいは異常なまでの?)煩悩もたっぷり持ち合わせていました。も
ともと器用に遊ぶというタイプではありませんから、20歳の年に稚拙にして
重苦しい恋愛が破綻した後、まだその傷を癒すことができないでいました。
 この生活が終るとすぐに四川料理に(また、結婚相手にも)出会うことになっ
ているとは露知らず、この頃の私には毛ほどの皮下脂肪もありませんでした。
細かい筋肉が表面からわかるので、解剖学のモデルになれと半ば真剣に勧めら
れたことすらあったくらいです。考えてみればこんな生活をしていて太るわけ
がありません。今、こんな生活をしたら半日で死にます。なんせ拳法だけであ
きたらず、器械体操の同好会を作ったうえ、冬はスキーに頻繁にでかけていた
のです。どこにそんなパワーがあったのでしょう。また、それはいったいどこ
へ行ってしまったのでしょうか。

 昭和52年の春をもって私の穴蔵生活は終りました。国家試験の発表を待た
ずに就職を決めました。最近はそうでもないようなのですが、当時、私の母校
は合格率100%を10年以上続けていましたから、普通の成績であれば不合
格などありえませんでした。就職先の経営もOBですから、何の疑問も持たず
受け入れておりました。
 勤め先は麹町4丁目にある医療法人でした。ボーナス無しというのがややひっ
かっかりましたが、当時の私にとってはどのような給料でも大金で、こんなに
もらえるの?というのが正直な感想でした。母に仕送りしてもかなり余るので、
住まいを移ることにしました。いままで谷底から見上げていた「山の手」(と
いう表現が間違っていることは知っていますが)のお屋敷町に住みたいと思う
のは、永ちゃんから吉幾三さんまで、成上がり者に共通の心理でしょう。
 田舎者の便利なところは、完全に自分の趣味で住む所を決めることができる
ことです。小石川2丁目の貧民街も(住んでいた方、ごめんなさい)多分に文
学少年らしい趣味で選びましたが、もう一つ「江戸指向」というのが私にはあ
りました。城下町で天守閣を見て育ったせいか、とにかく江戸のにおいがする
所が好きなのです。両国に住んで人形町で仕事をするなんて一度はやってみた
いな、なんて思っていました。
 比較的土地勘がある、つまり小石川に近くてしかも麹町にも近いと、しかも
江戸情緒となればもう決まったようなもんです。神楽坂の花街ですね。飯田橋
の牛込口から神楽坂をだらだら登りきったあたりに毘沙門天がありますが、こ
の裏手あたりには粋な黒塀の料亭が点在しています。そのもう少し上で、ほぼ
坂の頂上に近いあたりは新宿区袋町といいます。大久保通りをはさんで矢来町、
少し西に行くと箪笥町、牛込北町、坂を市ヶ谷のほうに下りると払方町や砂土
原町・・・もう名前からして江戸そのものでした。
 袋町の新築の1K(なんと風呂付!)に移って、私が最初にしたことは、ま
ずテレビと洗濯機を買うことでした。なんとそれまで6年間この2つがなかっ
たのです。次にしたことは新聞をとることでした。それまで全くニュースに興
味がなかったので、元首相の佐藤栄作氏が亡くなったことを(すでに2年くら
い経っていた)始めて知った程でした。
 窓から見ると外堀の谷越しに、三番町の一口坂のあたりから法政大学の方ま
で中央線に面した土手の上に桜が満開でした。気分はすっかりお屋敷住まいで
した。おう、谷底のほうには民が働いておるわ、ホッホッホッてなもんです。

春のおもひで(前編)
 いままでに、私の大学卒業前後のことについて書いてきたわけですが、実は
これからの話の序章というべきものでした。すでに述べましたように、昭和5
2年の4月に私は社会人となり、仕送りを受ける立場から、送る立場となりま
した。それと同時に健康保険(社会保険)の被保険者になりました。実はこの
ことがこの時の私にとっては一番大切なことだったのです。
 話はその前の年にさかのぼります。私の出た大学では5年生の後期から「登
院」つまり病院に出るようになるわけですが、この時に身体検査があります。
その時に胸部X線写真も撮影するわけですが、私は精密検査に回されたのでし
た。その結果、向いの結核予防会で検査を受けるように指示を受け、最後に内
科の教授に呼ばれました。「縦隔付近に異常な像があって、腫瘍のように見受
けられる。手術の必要が予想されるがどうするか。」という話でした。
 その時に私がまず思ったのは「金がない」ということでした。ご存じのよう
に差額ベッドというものがありますので、入院すると月に10万円くらいかか
ります。しかも国民健康保険ですから、3割の負担があります。胸部の手術で
は何十万の単位になることは確実でした。前にも書いたように、私は、奨学制
度のおかげでやっと在学していました。小石川の穴蔵に住んで、全く金のない
生活でした。世間からは小金持ちの代名詞のように思われている職業の卵なが
ら、免許がなければ全く役に立たないのでした。国家試験合格には絶対の自信
がありましたが(なんせ国家試験対策委員をしていた・・・けっこう優等生だっ
たのよ・・・まあ自慢させといてください)、卵は卵でしかないのでした。

 縦隔というのは、左右の肺の間のスペースのことです。建築物にもPS(パ
イプスペース)というのがありますが、ここにも気管や食道があります。この
縦隔で、心臓の中心寄りのあたりに、子供のうちだけ胸腺というものがありま
すが、成長するにしたがって消失してしまいます。縦隔にできる腫瘍はほとん
どこの胸腺の組織が元になっています。
 内科の教授に呼ばれて、このような説明を受けたわけです。私もこの2年く
らい前から左の腕のつけねや背中に妙なしびれを感じていたことを話しますと、
一応は良性のものだとは思うが、早めに手術をしたほうがいい。という話でし
た。
 すでに書きましたように、私には金がありませんでしたから入院などできま
せん。また1ヶ月でも休むということは、ああいう大学では留年することを意
味しています。私としては免許を取ることを最優先で考えたいと答えました。
教授も、まあそう思うのは当然であろうという意見で、卒業したらできるだけ
早く手術しなさい。ということになりました。そして私はそのまま、昭和52
年4月に卒業と就職をしました。国家試験の合格はその年の5月になっていま
す。
 いざ勤めてみると生活が変わったせいもあって、手術するどころではありま
せんでした。ようやく1年半後の53年の秋に集団検診を受けました。やはり
精密検査に回されて同じような意見を聞きました。胸部X線写真を見せてもら
うと、ほぼ握りこぶし大の透過像が不気味に見えていました。明らかに3年前
より大きくなっているのでした。
 54年の年頭についに手術をする決心を固めました。まる2年勤めたせいで
いくらか貯金もできたし、健康保険と、その傷病手当が期待できるようになっ
たからです。1月に慶應病院に行って、検査を始めて、2月にはおおまかな診
断がつきました。やはり入院手術ということになりました。ベッドが空き次第
連絡をするから入院の準備をして待つようにという話でした。

 勤め先にも了解を得て、入院の準備を始めました。患者もほとんど整理して、
3月にはほとんど仕事がなくなり、完全な「給料泥棒」状態になりました。毎
日出勤して慶應病院からの連絡を待っていましたが、いっこうに連絡がありま
せん。毎日医局でマッチ棒の細工をしたりして、自分でもいいかげんに嫌気が
さしてきました。
 この職場は医療法人で、全部で20人くらいのスタッフがいました。毎日暇
そうにしている私に同僚達は、最初のうちこそ入院をひかえているのだから、
という感じでしたが、そのうちなんとなく迷惑そうな雰囲気になってきました。
やっと連絡があったのはすでに4月の半ばでした。2ヶ月以上待たされたわけ
です。重い病気の人なら、こんなに待ってるうちに死んじゃうよね。
 しかしいつも思うのですが、あれは入院してから「病人の顔」になるんだよ
ね。私も母親にも知らせず、自分の足で入院したのですが、毎日検査検査の連
続で1週間で病人の顔になりました。最初の山は「血管造影撮影」です。これ
は心臓外科などでは「心臓カテーテル」などと言って、動脈のなかに入れた細
いパイプから心臓の付近で造影剤を流し、その状態をモータードライブのX線
撮影で連続的に追うわけです。このフィルムは35mmではなく全紙大ですか
らものすごい迫力です。ほとんどダチョウのはばたき(見たことがないのでわ
かりませんが)に近いものがあるのではないでしょうか。
 「動脈のなかに入れる」と気軽にいいましたが、動脈というものはほんのピ
ンホールほどの穴が開いても東映のやくざ映画のようにえらい勢いで血が吹き
出すのです。この場合には大腿動脈(ふとももの付けねというか、玉の横とい
うか)から細いポリエチレンの管を入れるのですがそりゃもう大変ですよ。こ
れが終わった後は圧迫包帯をして24時間の安静を命令されるのでもわかりま
す。つまり起き上がっても寝返りをしてもいけないのです。トイレに行くなど
論外です。

 話は全く唐突に前後しますが、何度も話題に出る麹町の職場には男女各10
名程度がおりました。で、これが2人一組のチーム、つまり術者と助手という
ことになるわけです。むろん、事務や受付などもいてけっこうにぎやかな職場
でした。
 そういうのが嫌いなのであまり見ないのですが、「そっくりショー」みたい
な番組があったりすると「えーっ!?どこがじゃ!バーロー!」と星一徹になっ
てちゃぶ台を蹴倒したくなるものですが、女の子同士の評価というのもそれに
近いものがあります。この職場にも「小柳ルミ子」やら「水沢あき」だの「三
沢あけみ」だの「木之内みどり」だのいろいろいました。そりゃもーあんた、
よくそういうふうに見えるもんだなと感心するくらいで、薄目をあけて、暴風
雨の夕方に10m先で見れば、まあ微かに似てなくもないかもしれないてなも
んでして、どんな場合にもオリジナルよりいいということは絶対にありません
でした。
 私が就職した時、院長についていた衛生士が「三沢あけみ」(たのむから演
歌系はやめなさいって)でした。見たところ30過ぎのように思えたのですが、
一旦口を開くと妙に甘えた喋りで非常に気味の悪いものがありました。私はこ
ういう「カマトト系」が昔から大嫌いなのです。そういうわけで当初はあまり
親しく口をきいたりしませんでしたが、その年の冬にこの人の父親が亡くなっ
て、私も似た境遇なので聞いてみると、なんとまだ22歳だという話でした。
 さらに話はとびますが、この2年後、私は本物の三沢あけみさんを見る(診
る)チャンスに恵まれたのでした。この話は職業上の倫理に抵触しますのでや
めますが、やはり似ていませんでしたよ。
 まあそんなこともありましたが、入院のころにはすでに丸2年が経過したせ
いで、あまり気にならなくなっていました。いわゆる「耳と目が慣れた」ので
すね。で、次第に判明したのですが、この仕事場の「三沢あけみ」・・・斎藤
さんという人でしたが、この人はけっして「カマトト」ではありませんでした。
本当に幼稚な人だったのです。特に感情のコントロールが苦手なのか、実によ
く泣くのでした。院長に怒られては泣き、なにかがかわいそうだと言っては泣
くのでした。

 話がまた脱線してしまいました。で、この麹町の「三沢あけみ」(ちっとも
トレンディでないところが情けないね)・・・斎藤さんがスタッフを代表して
信濃町の慶應病院胸部外科の病棟に見舞に来た時、私はちょうど血管造影を終
えて手術棟からストレッチャーに乗せられて戻って来たばかりだったわけです。
やれやれ、やっとこれで話がつながりました。
 血管造影というのはすでに書いたように血液中に大量の造影剤を(主にヨー
ドです)入れるわけですから、そのままにしておくと、これが体内に吸収され
てしまいますので、できるだけ早くこれを排出したいわけです。では具体的に
はどうするかというと、大量の点滴を行うわけです。つまり水分と一緒に尿中
に排出させるわけですね。見ていると2時間くらいで500mlを2本、つま
り1リットルの水分が血中に入ったようでした。
 斎藤さんが来たのは夕食の時間の少し前でした。すでに書いたように、まる
1日は体を動かしてはいけないのですから、当然食事も自分ではできません。
その間だけ看護婦が食べさせてくれるわけです。実は、準看で、看護学校に通
いながらこの病棟に勤務している子でちょっとかわいいのがいたのです。その
日はその子の当番でしたから、嬉しいというほどではないにせよ、いくらか気
分がよかったのです。まあ人間はどんな境遇になってもそれなりの楽しみをみ
つけられるものなんですね。
 やがて配膳されて食事になりました。例の看護婦がやってきたのですが、斎
藤さんが見舞に来ているのを見て、恋人だとでも思ったのでしょうか、意味あ
りげに笑いつつ
「じゃあ、ごゆっくり食べさせてあげてくださいね」
と言って去ってしまったのでした。私は心の奥でひどく落胆しました。何度も
言うように私は「カマトト系」は嫌いなのでした。さらにまた、大量の点滴が
効いて、遠くから自然の呼び声が聞こえ始めていました。その声は急速に大き
くなりつつあるのでした。

 あたりさわりのない話などしながら、夕食を食べさせてもらいました。なに
せ病院の夕食というのは5時です。しかも冷えきった煮魚、その上ヘヴィな検
査を終えたばかりで全く食欲がありません。しかしそこは運動部体質「食わね
ば負ける」の合言葉が足の先まで浸透しています。なんとか全部食べました。
その間にも左腕から点滴がどんどん入ってきます。もう食べたからそろそろ帰っ
てくれないかな。という気持ちです。
 不思議なもので、入院していると看護婦さんに対しては恥ずかしいという気
持がなくなってきます。この検査の場合も場所がナニの横ですから剃毛(わか
るね)します。両側を剃りますので(なにかあったときは反対側を使うため)
まんなかに味付け海苔ほど残っているだけですが、このときも別に恥ずかしい
とも思いませんでした。また、血管造影も3回行いましたが、尿を取ってもら
うのもいっこうに平気でした。彼女達が完全なプロ意識を持っていることをよ
く知っているからです。
 しかし見舞の斎藤さんの場合は似たような職種とは言え、今は同僚としての
部分で来ているわけですから、さすがにharn(独語、わかるね)をお願い
しますとも言えません。だんだん周期が早くなってきます。ズーンズーーーン
という感じで、やれやれ引っ込んだと思いきや、こんどは悪意を持った強烈さ
で尿意がこみあげてくるのでした。すでにそれは完全な苦痛に変わっていたの
でした。
「あの・・・あのね・・・」すでに声がこわばっています。
「はい。なんですか?」
「あのほら、エレベーターの並びにね、あの、トイレがあるよね」
「はい?」
「で、いってみるとわかるけど、あそこにポリエチレンのバッグと『しびん』
が人数分おいてあるわけよ・・・」
「・・・はい?」
ぼちぼち、しゃべるのも苦痛になってきました。点滴は情け容赦なく私の静脈
に水分を注入し続けているのでした。

春のおもひで(後編)
 皆さんは男性用のしびんにどれくらい入るかご存じですか?答えは約100
0mlです。女性用のものについてはよく知りません。病院では水分の摂取と
尿の双方の一日量をちゃんとカルテに記入します。したがって、トイレでは便
器の前に行くだけで、実際にはしびんの中に排尿して、それを自分の名前の書
いてある目盛り付きのポリエチレン製のバッグに入れます。
 もう遠慮している場合ではありません。斎藤さんにお願いして私のしびんを
取ってきてもらいました。しかし、さすがにそこから先はお願いするわけには
いきませんので、ちょっと場を外してもらって、本当は禁止なのですが、やや
体をひねるようにしてなんとか 「あてがい」ました。まあ出るわ出るわ、も
うこのまま止まらないかと思いました。実際ふとんの中でも水位が口の付近ま
で来ている気配がありましたが、こういうものはもうどうにもなりません。ま
あ多少こぼれてもしかたないだろう。てなもんです。
 ものごとには必ず終りがあります。できるだけ体を動かさないようにそっと
出すと、まさに危機一髪、1000mlの目盛を越えて口まで2cmくらいに
迫っていました。「さて」と一息ついて、あたりを見回してみても他には誰も
いません。
「あのー・・・」
と遠慮がちの声で斎藤さんを呼んだのでした。ああ、ついに私のおしっこをこ
の人に見られてしまうのね、というこの気持をこれの3年後に再び、しかも
「大」で経験するとは誰が想像したでしょうか。
 まあこの人の場合はお父さんが入院の末に亡くなったばかりですから、23
歳にしては平気だったのでしょうか、あるいは無理にそのように装っていたの
かもしれません。言った通り、素直にそれをトイレに持って行ってバッグにあ
け、容器を洗うという手順を守ってくれたようでした。どうも気まずい雰囲気
のまま面会時間は終りまして、いまいち会話もぎこちないままでした。私だっ
て当時26歳だったのです。

 さて、悪夢のような検査が終りましたが、本当の悪夢はこれからでした。検
査の後すぐに手術という話だったのが、微妙にニュアンスが変わってきたので
した。しばらく放射線療法を行ってそのあと再検査という話になりました。私
でもまだ病理学の知識は頭に残っています。良性腫瘍には放射線は効かないの
です。まあそれなりに説得力のある説明は受けたのですが、いまいちわだかま
りが残りました。
 それで次の日から地下の放射線科で毎日照射を受けました。外来の待合で待っ
ていると、来る人来る人皆死にかけています。もう皆さん自覚していますから
非常にオープンです。「ああ肺癌ですか、私は喉頭癌でしてね・・・」などと
いう会話が骨のように痩せこけた土気色の顔で、車椅子同士で交わされていま
す。私は一ヶ月通いましたが、途中で来なくなる(わかるね)人もけっこうあ
りました。
 放射線科に最初に行った時、担当の医師にカルテが渡っています。私が何気
なく見ると「悪性リンパ腫瘍」と書いてあるではありませんか。横文字でもま
だそれくらいは読めたのです。これは要するに癌の一種です。なるほど手術し
ないわけですね。後で聞いたのですが、腕頭静脈という指ほども直径のある大
血管(心臓に接しています)が腫瘍のせいでつぶれて閉鎖していたので、この
ように診断されたそうです。良性の腫瘍ではこのようなことはまずありません。

 もう一度言いますが、私にはまだ病理学の知識が残っていました。この病名
が何を意味するか知り過ぎるほど知っています。すなわち手術をして胸部の大
部分を切除した後、すぐに全身に転移して(リンパ系の腫瘍は非常によく転移
します)生命が終るのです。自分の年齢では、1年持つかどうかすらあやしい
ものです(若いほど早いのです)。要するに自分の一生はこれだけだったので
す。不思議に悲しくも恐ろしくもありませんでした。

 私は「あとつぎ」ですから、父が亡くなった時、広島の家を相続していまし
た。自分が死ぬとなると、これの始末をつけなければなりません。一応親戚で
分割協議はするでしょうが、私の意見というものもありますので、遺書を書き
ました。その時点で私の代わりに実家で診療をしてくれていた従兄に渡したかっ
たのです。
 私は母親から武士の末裔として精神教育を受けました。実際はこのような母
親を彼女が亡くなるまで憎んでいましたが、一旦幼少時に受けたものは一生残
ります。「どうせ死ぬのならドブの中ででも前のめりに死にたい」まあ、若い
せいで多分にヒロイックになっていたのでしょう、この坂本龍馬の気持そのま
までした。つまり、主治医の指示する治療を手術も含めてすべて積極的に受け
入れて、例えぼろぼろになってもじたばたせずに死のうと決意したのでした。
この時点で、まだ親族にも知らせていませんでしたが、事後の始末もあります
ので、一応長姉には、他に(むろん母にも)知らせないようにという条件つき
でしたが、連絡しておきました。これで死ぬ準備はできたわけです。
 放射線科に通う毎日が始まりました。1週間くらいで照射部位が表面からも
はっきりわかるほど火傷になってきました。まあ部位を限定して電子レンジを
かけるようなものですから、食道や気管の中も火傷しています。食物がそこを
通過するのは非常な苦痛でした。せめての慰めは内臓疾患でないので普通食だっ
たことでした。また、外出、外泊なども比較的自由でした。
 私にとって意外だったのは例の斎藤さんが度々見舞に来るようになったこと
でした。前にも書いたように、この人はよく泣く人でした。観察してみると、
結局あれは泣くのが好きなのですね。たぶん一種のカタルシスがあるのでしょ
うか。ですから少しでも「泣けそう」な話は決して見逃さないのですね。

 前にも書いたように、私は「遅れてやってきた武士」でしたから、それまで
他人の世話になりそうな機会はできるだけ避けてきました。例え親や兄弟でも
甘えることは最大の恥であると思っていました(今でもそう・・・かな?)。
この入院に際しても、いかにも病人然とした姿を見られたくないので、友人に
も知らせませんでしたし、同僚にも病院に来ないように頼んでおいたのでした。
それも、この「三沢あけみ」には通用しなかったのです。たぶん「泣けそう」
な話だったのでしょうね。
 放射線科に1ケ月通ってもう一度血管造影の検査を行いました。その結果、
手術の日程が決まりました。病院は1年中エアコンディショニングをしていま
すが、窓の外はそろそろ梅雨になろうとしていました。今となっては正確な日
付は覚えていませんが、27歳の誕生日の直前に開胸手術を行いました。要す
るに首の下からみぞおちのあたりまで、正中線で骨ごと開くのです。まあ「鉄
腕アトム」状態ですな。
 こういう話を長く続けても、読む人にとっては不快なだけですから、結果だ
けを書きます。その日午後4時くらいでしたでしょうか、むろん時間の感覚は
あやしくなっていますが、全身麻酔から覚めると、CRCU(呼吸、循環の集
中治療室)の酸素テントの中にいました。両手両足に点滴、胸腔と縦隔にドレ
イン、鼻腔に酸素、penis に尿カテーテル、anusに体温計、胸には心電計とい
うわけでほとんど「マジンガーZ」がドック入りした状態になっていました。
 朦朧とした意識のなかで主治医の「デルモイドチステ(皮様嚢胞、悪性腫瘍
ではない)でしたよ。また仕事に戻れますよ。」という声を聞きました。また、
知らせてない筈の母の姿なども見えて、「やっぱり死ぬところだったんだな」
と思ってまた眠りに落ちました。次に意識が戻った時は深夜らしく、もう誰も
いませんでした。当直の看護婦に飲ませてもらったオレンジジュースは乾いた
喉にしみこむようなおいしさでした。

 一般病室には4日目に戻されました。この頃は毎日高熱が出てねまきがびっ
しょり濡れましたが、斎藤さんが毎日来て汚れ物を洗濯してくれました。骨が
切断されているわけですから、体を動かすことや、まして起き上がって歩くこ
となど、気が遠くなるほどの苦痛でした。しかしそこは運動部体質(ひょっと
してマゾのこと?)、なんとか起き上がる努力をしまして、ついに「大」のほ
うだけは誰の世話にもならずにすみました。むろんその行為にも、なにせ力む
だけに、大変な苦痛を伴ったのでした。
 病院の階段を上り下りなどして筋肉の回復に努めた結果、すばらしい回復を
示して、1月足らずで退院となりました。入院も一人でしたが、退院もあっけ
なく「もういつでも退院できますよ」という話を聞いて「では、今からでもい
いですか」ということで朝食の後荷物をまとめて一人で退院しました。外に出
ると、もう梅雨は明けて夏の盛りになっていました。強い陽射しにめまいがし
そうになりながら、タクシーで神楽坂の部屋に帰りました。肺にはなんの影響
もなかったので、煙草を吸いました。焚火の煙の味でした。
 9月1日から職場に復帰しました。また平凡な日常が始まり、毎日四川料理
に溺れました。せっかく手術で減少した体重もすぐに戻ってしまいました。結
局、誤診(やむを得ないとは思いますが)の原因になった腕頭静脈はついに再
開通しませんでした。したがって、腕のしびれや背中の凝りは私の一生の持病
となったのでした。まあ、左側なのが不幸中の幸と言えるかもしれません。

 次の年の10月に私は斎藤さんと結婚しました。あの年の春、私は死の淵を
のぞいたかわりに結婚相手にめぐりあっていたのでした。

(終り)