840 丸に橘の角字(2)
ところで、備後福山で橘の家紋ということになると、連想されるのは
「天よ我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという
山中鹿之介です。この山中幸盛(幼名鹿介)は三日月で有名ですが
家紋は橘であったと知られています。
私のように歴史に全く興味のない人のために、ちょっと概説を。
山口広島島根あたりは「毛利」の勢力範囲、と思うのがまあ普通ですが
むろん神代にはヤマトと出雲や伊勢の神の争いとか、平安末期には
瀬戸内海一帯の平家を東国の源氏が滅亡させたり、常にあのあたりは
新興勢力と滅んでいくもののドラマの舞台だったのです。
戦国時代になってきて大きくなってきたのが「尼子」、そしてこれを
完全に滅ぼしたのが毛利で、尼子の本拠地は出雲の月山冨田城、
尼子は勢力範囲を現在の鳥取や広島方面に拡大して行きます。
この勢力の拡大に衝突した大内と争いや和睦を繰り返しながら尼子は山口方面にまで拡大していきますが、大内側の内紛を制した安芸吉田の毛利が勢力を急速に拡大させ、尼子の仇敵となります。毛利は中国地方のほぼ全域を制し、形骸化した幕府を福山の鞆に保護して、将軍は毛利を守護に任じて、正当性を得た毛利は徹底的に尼子を滅亡させるのです。この徹底的な殲滅戦の中で、なんとかして滅び行く尼子の名を
もう一度、やられてもやられても、尼子を再興するために戦う、
この、滅びながらも前に前に、という日本の美学の原型ともいう人物
それが尼子一族の山中鹿介というわけなのです。
安来市観光協会 尼子氏・山中鹿介・月山富田城・毛利氏
尼子が滅ぶ頃の毛利は今の中国地方全体をほぼ制覇し、前述のように
弱体化した室町幕府の将軍が織田信長によって京から追放されるのですが、
毛利はこの最後の将軍足利義昭をこの福山の鞆(とも)で保護することになるのです。
やがて秀吉の時代、そして天下を分ける関が原の後の徳川幕府の時代に
西軍総大将の毛利は徹底的に力をそがれ、今の山口県に押し込められます。
このうらみが、やがて江戸時代を終焉させる長州の倒幕運動の原動力に
なるのですが、それは260年後のこと。
関が原の後、現在の広島県あたりは福島正則の所領となりましたが、
豊臣を代表するような大名ですから、徳川に謀反するとして改易を命ぜられ、
家康の母方の従弟である水野勝成が、この古くから要衝の地でもある
備後福山に壮麗な城を築いて現在の福山を作り上げて行くことになるのです。