841 丸に橘の角字(3)
更に福山出身の友人にとっても「へー!」な話を一つ、室町幕府は名前のとおり京都にあったわけですが、前述のように最後は今の福山市の鞆町にあったので「鞆幕府」という歴史家もいるという話、百回は遊びに行った鞆の浦ですが、あれが幕府の場所とは全く思いませんでした。15代将軍足利義昭は鞆に幕府を移して、室町幕府は終わったのです。信長はこの9年後に本能寺の変で斃れ、秀吉はその16年後に病死しますが二人とも公家としての官位で、武家としての次の征夷大将軍は徳川家なのです。すなわち、鎌倉幕府、室町幕府、(鞆幕府)、江戸幕府となるのです。尼子の再興をひたすら信じて戦ってきた山中鹿介は今の兵庫県佐用町の上月城にて毛利方に捕えられ、鞆に移送される途中、倉敷の25Kmほど北方の高梁川阿井の渡しにて刺客によって殺されました。その後首実検のため、首だけが将軍足利義昭のいる鞆に送られました。(福山市HP 「鞆の浦 手づくりイラストマップ」一部分)
ところで、滅亡した尼子の家紋は、「平四つ目結」宇多源氏/佐々木氏の紋である
「目結」(絞り染めの意味)で、これにも色々なバリエーションがあります。
話は全くあさっての方角に変わるのですが、素人歴史家の大好物に
「貴種流離譚」があります。代表的なやつは例の源義経が蝦夷の地に落ち延び
やがて大陸に渡ってジンギスカンになった、というやつです。
で、私の家をさして、こういう素人歴史家が「**家はありゃ尼子だよね」と
言ったとか言わないとか。断っておきますが、結局ヤサぐれたとは言え、元は
後継ぎのはずの私は、父からもじいさんからも一回もそういう話を聞いた
こともなければ「これが先祖の家系図で」的なものを見たこともありません。
しかし、私がごく幼かった頃から父はこの「山中鹿之助」(こう呼んだ)の
「七難八苦を与えたまえ」の話を何度となく私に語ったのを思い出します。
それで、50歳も過ぎてから、この尼子の末裔というヨタ話を聞いてから
なぜ私の家紋は非常に珍しい「字の橘」なのか、と考えてみれば
おお!山中鹿介の橘が尼子の目結を守っているではないですか!
うーむ、こりゃなかなかよくできた話だなー。